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第一次世界大戦の終結から七年後の大正十四年。一部で反対運動は起きたものの、全国の学校で軍事教練が始まった。榛原中学校にも六月、配属将校が赴任し、太平洋戦争が終わる間際までの約二十年間にわたる教練の歴史が幕を開けた。 戦争に対応できる人間を育成するという軍事教練は配属将校の指導で、さまざまに行われた。昭和二年、榛中に入学した中村誠(榛中・昭7年卒)は週に二時限ずつの定期的な教練のほか、全生徒が参加する大規模教練を経験した。
秋季演習も脳裏に焼き付いている。全生徒が隊列を組み、掛川中学校(現・掛川西高校)を目指した。四、五年生は背のうを背負い、銃を携帯した。掛中に着くと、教官が突撃命令を出し、生徒たちは喚声を挙げ、校庭に走り込んだ。「戦意高揚を狙った教練」と中村は振り返った。 五年間の軍事教練で、戦争をすんなりと受け入れる思考が出来上がった。「男である以上、戦争に行かねばならないとの気分になり、ことある時には、命を捨ててもいいとの気持ちも出来上がった。教育にごまかされた」 須藤博(榛中・昭19年卒)は軍事教練では実弾を使った射撃訓練、二手に分かれて突撃を繰り返した演習を鮮明に覚えている。学校内部も軍隊式に呼んだ。全学年を縦割りにした二グループを甲、乙の各大隊、各学年を中隊、二つに分けたクラスを第一と第二の小隊と名付け、例えば一年一組ではなく甲大隊第一学年中隊第一小隊などと表した。 軍隊に入るのは当然のことと受け止められ、級友は海軍兵学校、陸軍士官学校などにも進んだ。須藤も陸軍兵器学校に入学した。「教育で洗脳されたんでしょうね。戦地に行けば帰ってこれないと観念していた」
スポーツにも戦時色が色濃くなり、戦場運動という競技が生まれた。須藤は戦場運動の選手になり、昭和十七年、大阪で開かれた全国男子中学校・師範学校体育大会にも出場した。 戦場運動はその名の通りに戦場での行動を想定していた。須藤によると、水壕(ごう)や高さ二メートルの壁を越え、鉄条網をくぐり抜ける障害物通過、数十キロの土のうを担ぎ、百メートルを走る土のう運搬、円内に手りゅう弾を投げ入れる手りゅう弾投てき・突撃、それに行軍の四種類だった。当時は太平洋戦争の真っただ中。野球は敵国のスポーツとして禁止され、「それに代わる運動として戦場運動が盛んに行われた」(須藤)。 【注】カッコ内の「卒」は卒業年。敬称略。 |
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