![]() |
|
太平洋戦争での日本の敗色が濃くなり始めた昭和十九年二月、大人たちだけでなく、学生も戦いの中に組み込む決戦非常措置要綱が閣議決定された。間もなく全国の中学生の長期勤労動員が始まり、学校を離れた生徒たちは軍需工場で兵器など軍事品の製造に携わった。榛原中学校生も例外ではなかった。同年七月二十七日、四、五年生の百五十八人が愛知県名古屋市の住友金属工業名古屋軽合金製造所に向かった。 門奈徹(榛中・昭20年卒)はセピア色に変色した一枚の写真を取り出した。軍服調の制服、ゲートルで足元を固めた生徒らが藤相線・静波駅で列車を待っている写真だ。「雨がちょっと降っていた。眼鏡を掛けてバッグを持っているのが私。勤労動員で出発する時の様子」。その日のうちに勤労先に着いた。八月初めから、作業が本格化した。
勤労動員の経験者らが発行した冊子「勤労動員の頃」などによると、同製造所は飛行機の部品を製造していた。生徒たちは、鋳型を作る鋳物、ジュラルミンのインゴットを製造する鋳塊、プロペラの鋳型を研磨する製板、形成などの鍛造、エンジンの一部を作る気筒などの部門に分かれ、朝から夕方まで働いた。 門奈は製板。「ふすまほどの長さがあるプロペラの鋳型をタガネやグラインダーを使ってきれいに削った。一対の鋳型がぴったり合うように何度もすり合わせた」
久保田文造(榛中・昭20年卒)は品質を検査する試験室に勤務した。面食らったのは食事だった。ご飯といっても、七分づきのような茶色っぽい米とトウモロコシを混ぜたものだった。「初めはよく下痢をした。食えたものではなかったが、背に腹は代えられず、食べ、そのうち慣れた」。使用済みの食券に空いた穴を、うまくふさいで、もう一度使う「二杯めし」も生徒間では常だった。 鋳塊、気筒を担当した坂本公夫(榛中・昭20年卒)は「溶けたジュラルミンを坩堝(るつぼ)で鋳型に入れる作業は熱かった。ジュラルミンの温度は約八〇〇度。含有物の銅が悪かったのだと思うが、やけどをすると、傷口がぐちゅ、ぐちゅして一、二カ月も治らなかった」。ほかの生徒同様、空腹にも悩まされた。生徒の中には、軍関係の学校を受験すると偽ったり、多量のしょうゆを飲んで体の異常を作り出して帰郷した者も現れた。 十九年暮れには東南海地震で工場に大きな被害が出、二十年に入ると空襲が激化した。「空襲警報が鳴ると寮まで逃げた。空襲で寮にも火が付いたが、たたいて消した」(久保田)。 生徒たちは二十年春、動員先で卒業式を迎えた。四年生は一年短縮の卒業となった。式後、実家で仕事に就く者、代用教員になる者などは帰郷したが、進学者は勤労動員を終戦間近まで続けた。 勤労動員中、授業はなく、生徒たちは勉強から隔絶された状態だった。坂本は「あの時期、もっと勉強をしていたらと思う。さんざん、こき使われた。今、思うと情けない」と振り返った。 【注】カッコ内の「卒」は卒業年。敬称略。 |
掛中・掛西百年史 御殿場高 躍進の百年 静岡新聞へ |