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榛原中学校の四、五年生が住友金属工業名古屋軽合金製造所で働き始めた昭和十九年八月、三年生百数十人も勤労動員で清水市三保の日本鋼管清水造船所に向かった。榛中には一、二年生が残ったが、二年生も翌二十年五月には同造船所に動員された。 造船所で、榛中生が造ったのはD型戦時標準船と呼ばれた四〇〇〇トンの貨物船「第6新生丸」。二つの寮に住み込み、船の装備を整える艤装(ぎそう)、電気溶接、電気工事などに携わった。
十九年から二十年の終戦まで一年間、造船所で働いた戸塚卯太郎(榛中・昭21年卒)は「戦時色一色」と一言。記憶をたどりながら、仕事や同級生の様子に触れていた戸塚は目頭を押さえ、声を詰まらせた。しばらくして「今、思っても、あれが一番かわいそうだった。かわいそうでならん」と同級生の名を挙げた。 戸塚によると、十九年の秋、寮で同室の同級生が腹痛を訴えた。同室者の薬をあらかた飲んでも効かず、痛みは増すばかり。激しい痛みにこらえきれず、室内を転げ回る状態だった。引率の教師に助けを求めたが、対策は取られなかった。翌朝、虫の息の同級生は病院に運ばれたが、腸捻転(ちょうねんてん)で死亡した。戸塚は「あれから五十数年たっているが、『痛いな―』という声が耳に残っている。早く手術すれば、死ななかったはず」と悔しさを隠しきれない。 生徒たちは空腹に悩まされ続けた。食事は大豆が混じった玄米と、わずかなおかず。大豆を消化できず、頻繁に下痢をした。二十年五月に動員された榑林威次(榛中・昭23年卒)は栄養失調状態だった。「一時帰郷の時、実家への山道をやっとのことで登った。いつもなら、難なく登れたのに―」
空襲がつきまとう死と隣り合わせの生活、日常化した空腹感が生徒に大きなストレスを及ぼし、異常な行動も取らせた。下級生に対する上級生の過酷な制裁だ。寮の上級生の部屋に下級生が呼び込まれ、激しく殴られた。口の中を切り、食事ができなかったり、顔面が膨れ上がって水で冷やす生徒が続出した。殴られた人は「目から火花が出たかと勘違いするほど、めちゃくちゃにやられた。下級生が食料を盗んだと言い掛かりをつけていたが、いらいらしていじめたのだと思う。下級生の大半が殴られた」と話した。 二十年七月の空襲で清水市内は大きな被害を受けた。造船所も痛手を被り、榛中生が宿舎としていた寮のうち一棟が焼失した。さらに月末、艦砲射撃が市内を襲った。その度に生徒たちは逃げ惑った。神田均(榛一高・昭24年卒)は「焼夷弾で、あたりは昼間のよう。断末魔の光景だった。破片が雨のごとく降ってくるたび、ぬかるみの土管に身を隠した」と日記につづっている。 そして終戦。榛中生は八月二十日に造船所を去った。戸塚は振り返った。「何をやってきたんだろうとむなしかった。それまで、考えが間違っているとは思わなかったから―。何年か後、教育次第で、どんな人間もつくられると思った。一番恐ろしいのは思想教育だと気付いた」 【注】カッコ内の「卒」は卒業年。敬称略。 |
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