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 勤労動員(下)

工廠内で繰り上げ卒業

 榛原中学校生らが勤労動員で名古屋市や清水市の軍需工場に出向いたのと同じように昭和十九年八月二十日、川崎町(現・榛原町)にあった榛原高等女学校の三、四年生約二百人が勤労動員で沼津市の沼津海軍工廠に向かった。

 当時、十五歳だった八木みつ子(榛高女・昭21年卒)は、当日、手荷物を持ち、学校近くの藤相線・遠州川崎町駅に集合したことを覚えている。「下級生が手を振って見送ってくれた。父も漁船の徴用で香港に行っており、勝つためには勤労動員も当然と思っていた」。一行はその日のうちに工廠に到着した。

▼1人1畳、ノミに悩む

   宿舎は木造二階建ての工廠内の寮。羽目板が無造作に張り付けられるなど急ごしらえした様子がありありとした建物だった。生徒たちは十数畳の部屋に、十人ぐらいずつに分かれて暮らすことになった。秋野輝子(榛高女・昭21年卒)は「一人当たり、一畳ちょっとと狭く、寝る時は向かいの人と頭がくっつくほどだった。それにシラミやノミが出て困った」と記憶をたどった。

 八木らによると、工廠の敷地は広大で、工場棟、大食堂、診療所、寮などが設けられ、榛原高女のほか、伊東、掛川、藤枝の各高女など多くの生徒たちが勤労動員で集まっていた。八木は無線機の接点調整などを担当し、秋野は蓄電器に雲母をはめ込む作業を行った。

 工廠内の生活はすべて軍隊式。工場への行き帰りも四列縦隊で歩調をとり、勤労動員の歌や軍歌を歌いながら行進した。軍人も多く、「作業の指導をしていた中尉さんに生徒があこがれたような話もあった」(秋野)。

▼家族の悲報に涙々

 食事には苦労した。サツマイモや豆かすが混じったご飯は常。イモの粉を固めて、ふかした食料もご飯代わりに出された。八木は「イモの粉の食事だけは食べられず、家から持ってきていた切り干し芋でしのいだ」と振り返った。生徒たちは年中、空腹感にさいなまれていた。

 二十年春、工廠内で、四年生の卒業式が一年繰り上げて行われた。小山れい(榛高女・昭和20年卒)は「出席したのは四年生と工廠側の方、校長先生や教頭先生、引率の先生。三年生も参加せず、簡素な式だったが、厳粛だった。今では想像もできない卒業式だとは思うが、寂しいといったような気持ちはなかった。戦争のことで頭がいっぱいで、これが当たり前だと思っていた」

 七月の深夜、沼津市内は激しい空襲を受けた。教師や同級生と一緒に寮から逃げた八木の前方に焼夷(しょうい)弾が落ちた。「シュル、シュルとの音したと思ったら、焼夷弾だった。水のある田んぼに落ちたので火は広がらなかった」

 ほとんどの生徒は終戦まで工廠で働いた。空襲などによる犠牲はなかったが、一人の生徒が動員から戻った後、間もなく病死した。自分は無事でも家族の悲報に泣いた人もいた。「動員中、父が亡くなった。漁船に乗っていた兄も嵐(あらし)で遭難して死亡し、祖父も病死した。戦後は苦労した」と八木は語った。

 【注】カッコ内の「卒」は卒業年。敬称略。  


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