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太平洋戦争の末期、一億総動員が叫ばれていた昭和十九年春、十代後半の少女の一団が藤相線、東海道線を乗り継ぎ、清水市に向かっていた。屈託なく、しゃべり、表情は明るかった。戦況が厳しさを増すばかりだっただけに、未来に期待感を持っているように映る少女の姿はまぶしかった。一行は榛原高等女学校の卒業生で組織した女子挺身隊だった。 決戦非常措置要綱が閣議決定されて以来、軍需工場で働く女子挺身隊が次々とつくられ、榛原高女卒業生らも二隊、結成した。うち一隊の三十数人が清水市の日立製作所清水工場を目指していた。
卒業直後に挺身隊に加わった飯田イシ(榛高女・昭19年卒)は参加したいきさつを説明した。「学校から参加するように言われ、すぐ加入した。男の人は兵隊になっていたし、挺身隊に入るのは当たり前だと思った。それに、私の家は姉との二人姉妹で、それまで、お国にためになることがなかったから、よい機会だと考えた」 当初、清水駅近くの建物を仮宿舎にした一行は間もなく、日立製作所内に造られた木造二階建ての寮に移った。各部屋に、二段ベッドのように二人が寝られる設備が十基、設けられ、一部屋で十八人ほどが暮らした。構造が似ていたため部屋は鳥小屋と呼ばれた。実際、上段の人が下段に顔を向けて話をする様子は鶏を連想させたという。 少女たちは圧縮機部品の製造、加工に必要な線を描く罫書(けが)きなどに従事した。コウリャンなども出された食事には面食らったが、最も苦労したのは水だった。飯田は振り返った。「水がなくて水田付近の流水に頼った。澄んだ水で洗顔には支障がなかったが、洗濯をすると白い服が茶色に変色して困った」 空襲警報は頻繁だった。鳴るたびに防空壕に退避する日々だった。松林さや子(榛高女・昭和19年卒)は「焼夷(しょうい)弾、爆弾の直撃はなかったが、怖かった」。飯田には笑うに笑えない話もある。「夜中に退避命令が出た時、逃げる所がないので、数人で布団を持って近くの橋の下に逃げ込んだ。そのまま寝てしまい、気付いたら、日が昇っていた。仕事に遅れ、怒られた」
飯田は死と紙一重の経験もした。昼食後、友人と歩いていた時、「ワーン」との音が聞こえた瞬間、強い風で体が倒された。続いて、機銃掃射が襲った。偶然、弾は体をそれた。アメリカ軍の艦載機だった。「当たったら終わりだった。でも、普段から、『どこで死んでも、みんなと一緒なら怖くない』と話していて、覚悟はできていた」。 榛原高等女学校女子挺身隊の面々は、清水市内へのアメリカ軍の攻撃が激化したため、終戦前に帰郷したという。一年以上にわたった挺身隊の日々は参加者に強烈な思い出を刻んだ。ある人は「大変な苦労をした」と言い、飯田は「おかしなことだが、楽しかった。学校の延長のようだったし、自由だった」、若杉昭子(榛高女・昭19年卒)も「みんな仲良く、嫌な思いはなかった」と話した。 (21回文中の、四年生の卒業式は一年繰り上げではなく、通常の卒業でした)
【注】カッコ内の「卒」は卒業年。敬称略。 |
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