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 榛原高等女学校

粗末な校舎に乙女の夢

 県立榛原高校のルーツは二つの学校。一つは男子校の旧制・榛原中学校。もう一つは女子校の榛原高等女学校。両校が車の両輪のようになって榛原高校を形づくった。片方の車輪に当たる榛原高女の発祥をたどる。

 「創立八十周年記念榛原高校校誌」などによると、榛原高女の前身は明治三十六年、川崎町(現・榛原町)内に設立された東遠音楽会。

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昭和11年に卒業した榛原高等女学校の生徒たちの記念写真。後ろは校舎(中山さん所有)

▼100年前、女子教育の芽

   榛原中学の前身、堰南(えんなん)学校が吉田村(現・吉田町)に発足してから三年後のことで、榛南地域の男女教育の芽生えが、ほぼ同時期、約百年前にさかのぼることが分かる。東遠音楽会の設立に尽力したのは、堰南学校の創立者でもある浅井熊太郎(一八七二―一九四四年)。浅井は同僚とともに女子教育機関の必要性を地域に熱心に訴え続け、開校にこぎつけた。

 東遠音楽会は発足一年後、東遠女学会に改称した。学芸部と音楽部の二部制の学校で、学芸部は十二歳以上を対象に修身、国語、地理、看護、裁縫、料理などを教えた。音楽部には幼稚部を設け、三歳以上の児童に唱歌、遊戯などの教育も行った。一時、生徒が百人を超えた同校は間もなく閉校したが、培われた女子教育の芽は育ち、四十二年、修業年度三カ年の本科と一カ年の補習科からなる川崎町立榛原女学校が開校した。

 大正六年、同校は川崎町や吉田村などが共同運営する榛原実科高等女学校に発展し、九年には四年制の榛原高等女学校として新たな出発をした。校舎は改造した小学校の建物で、国語、英語、歴史、数学など広範な教育が行われた。この時代の榛原高女は地名から「三丁目時代」と呼ばれ、数々の思い出を生徒たちの胸に刻み込んだ。

 西谷せつ(榛高女・大11年卒)は「お粗末だった校舎も当時の私たちには若い乙女の夢を育ててくれた最高の殿堂でした」、伊藤静枝(榛高女・大12年卒)は「教育目標は良妻賢母。初めのころ、数人おられた先生方が年を追って増員され、個性豊かに生徒を教育して下さったのは本当に幸せなことでした。大正デモクラシー、職業婦人自己に目覚めよなどという耳新しい言葉を聞いたのもあのころでした」と創立八十周年記念榛原高校校誌に寄稿している。

▼昭和恐慌で生徒減少

 同校は生徒の増加に対応するため、大正十五年に、川崎町の秋葉山ろくに移転、昭和二年には県立校に昇格した。学業、部活動とも充実したが、昭和恐慌と近隣の相良家政女学校との競合で生徒の減少という難問に直面した(「榛原高校百年誌」資料)。教師らは連日、生徒の勧誘に追われた。

 昭和七年に入学した中山雅子(榛高女・昭11年卒)は振り返る。「毎日のように先生が家を訪れて私の進学を求めた。母は『経済状態から、とてもやれない』と断っていたが、とうとう折れ、私は家(万屋)の手伝いをする約束で、女学校に進んだ」。中山は授業が終わると、急いで家に戻り、制服のまま、店の仕事をこなした。客の応対をしたり、十五キロの木炭を自転車に載せて配達したりした。自由になる時間は妹を寝かし付けてからだった。「遠足は勉強ではないからと休み、家を手伝った。遠足のために近くを同級生が通った時は物陰に隠れた」

 質実剛健さが感じられる榛原高女の気風は中山のような生徒たちがつくったように思えてならない。

 【注】カッコ内の「卒」は卒業年。敬称略。  


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