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榛原高等女学校の洋服の制服ができたのは、実科高女から代わって間もない大正十年ごろ。モダンガールを連想させるようなしゃれたデザインで、女学生の洋装姿を見慣れていなかった周囲の人たちを驚かせたという。
制服について、野村きん(榛高女・大12年卒)は創立八十周年記念榛原高校校誌にこう寄稿している。「浅井先生(浅井熊太郎校長)は大変進歩的で合理的な方だったと思います。県下でもまだ制服はほんの少数でしか採用していない当時、いち早く制服に踏み切られた英断、制服がいかに合理的で経済的であるかを繰り返し説明され、同時に華美になることを避け、父母の負担を軽くされようとの配慮がうかがわれました」 各家庭の経済的負担を軽くするため、制服は生徒自ら作製したり、上級生が下級生の制服を作るのが常だった。野村は「まず三、四年生が自分のものを縫い、次に一、二年生のものを作った」と記している。榛原高校百年誌(近く発行予定)資料には、生徒たちが制服を作るために遅くまで、学校に残ったり、授業をやめて、裁縫に没頭したりした様子も表されている。
同資料によると、モガ風の制服も大正十五年から、セーラー服に代わった。「スカートの二本線がなくなり、襟・胸当て・胸ポケット・袖口に白の二本線が付いた。このデザインは戦後の榛原高校のセーラー服に引き継がれ、昭和三十四年度に現在の制服になるまで続いた」(「同資料」) 生徒が制服を作る伝統は戦後も残った。榛原高女、榛原高校の教師を務めた水島倭文(榛高女・昭9年卒)は榛原高校家庭科の女生徒たちと夏制服のブラウスを作った時の様子を説明した。作製したのは依頼があった一年生向けの制服。学校の購買から綿とポリエステルの混紡素材を取り寄せ、三年生が一人一、二枚作った。着用する人の体型に合わせて袖丈などの大きさを決め、ミシンを使って縫ったという。「大変だったが、生徒たちは一生懸命作った。後輩が着る制服なんだと精魂込めたと思いますよ」。いくらかの仕立て代は家庭クラブの活動費に充てた。 今のジャケットの制服になったころから家庭科が廃止された昭和四十年後半まで作製は続いた。水島は振り返った。「ブラウスを通して上級生と下級生の交流も生まれたと思います。作った方にしてみれば、着てもらえるのはうれしいですし、着る方にしても、手作りの温かさを感じたのではないかしら。それに、制服を大切にしたと思いますよ」
【注】カッコ内の「卒」は卒業年。敬称略。 |
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