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 郷土に貢献

教職に女性の働きがい

 戦前、戦中のほとんどの女学校は良妻賢母の女性を育てることに主眼を置いた。榛原高等女学校も例外ではなく、生徒たちの多くは卒業後、家業や家事を手伝ったり、裁縫などの勉強をして結婚まで過ごした。そんな風潮だったが、教師になって郷土に貢献したいと奮起し、師範学校などに進んだ卒業生たちも少なくなかった。

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習字を学ぶ榛原高女の生徒。ふるさとのためにと教師となった同校卒業生は少なくない(「90年の歩み―榛中・榛女・榛高―」より)

▼目立つ師範進学者

 同窓会員名簿を見ると、榛原高女卒業生の大半は進学しなかった。少ない進学者の中で、目立つのは静岡女子師範など教師になるための学校に進んだ人たちだ。卒業生が五十人前後だった初期の年代も数人ずつが師範などに進学した。卒業生が百人台の時代に入ると、その人数はさらに増加し、十人あまりが進んだ時期もあった。

 当時、女性たちが就職を希望しても、職種はそう多くはなかった。その中で、安心して就職でき、かつ働きがいもある職業は教職だった。ふるさとで地域のために役立つ仕事をしたいと考えた女性にとって教師は最適。榛原高女から師範学校などに進み、郷土の教壇に立つ女性が次々と現れた。

 昭和十五年に入学した八木あや(榛原高女・昭19年卒)の同期は百十四人。うち八木ら十人が教職を目指し、静岡第一師範、青年師範などに進学した。八木は尋常小学校の時の恩師に強い感銘を受け、教師を志した。「お二人の女性の先生。童謡をはじめ、楽しい授業をしてくださった。先生方にあこがれ、大人になったら教師になりたいと思った」

 第一師範に進んだ八木は戦後、地元の細江国民学校の教師になり、以降、小学校教育に力を注いだ。同期の森本順子福世満里子杉山房恵も第一師範に進み、小中学校の教師として、地域の教育に活躍した。

▼学生生活に戦争の影

 しかし、女学生の学生生活は平坦ではなかった。戦争が色濃く影を落とした。昭和十七年、ミッドウェー海戦で日本軍が敗れ、戦局が厳しさを増すとともに、榛原高女の教育も戦時色が強まった。出征兵士宅での農作業の手伝いが増え、花卉(き)栽培はサツマイモの栽培に変わった。女学生も体力を増強する必要があるとして、砂袋を体に付けて走る重量運搬、競歩などが盛んに行われた。

 八木は第一師範の一年生の冬、勤労動員で落下傘を製造していたとみられる駿東郡小山町の工場に向かった。勤労動員は終戦間近まで続き、恐ろしい経験もした。「空襲があって工場から逃げる途中だった。戦闘機が降下してくるのが分かったので地面に伏せた。その途端、バリバリと音がして機銃掃射が始まった。生きた心地はしなかった。この時の掃射で級友一人がけがをした」

 榛原高女卒業生で教師となった人たちも既に退職し、地域でそれぞれの人生を送っている。榛原町で暮らす八木のもとには、教え子が顔を出し、「先生、元気」と声を掛けてくれる。八木は、その気遣いがうれしくてたまらない。「申し訳ないくらい幸せ。教師になってよかった」

 【注】カッコ内の「卒」は卒業年。敬称略。  


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