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 再出発(下)

授業は一変、活気が戻る

 「戦局は日に日に激しくなり、『敵は御前崎上空を…』の放送が矢継ぎ早に出される毎日でした。警戒警報、空襲警報が発令され、防空壕に身を屈めることも度々でした」。戦争末期の昭和二十年春、榛原高等女学校の教壇に立った植木希美(榛高女・昭15年卒)は当時の様子を「榛原高校百年史」(十一月発行)にこう寄稿している。

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終戦直後の榛原高等女学校。軍政部のアメリカ人が来校した時の様子。(「90年の歩み−榛中・榛女・榛高−」より)

▼死に直面、笑い出す

 空襲の激化とともに、太平洋沿いの榛南上空への米軍機の侵入が頻(ひん)発し、その度に同校生徒たちが授業を止めて、逃げ回ったことが伝わる。植木はぞっとするような経験もつづっている。

「すさまじい爆音が聞こえ、グラマンが低空で比木(地名)に向かって行きました。防空壕に生徒を押し込んだら満員で入れず、体操の鈴木先生と校舎の外壁にへばりつきました。あまりにも爆音が大きいため、体が硬直してしまいました。星条旗のマークと操縦士の姿が目に飛び込んで来ました。これで最後かと思った途端、鈴木先生も私も大声を上げて笑い出しました。何の笑いだったのか。人間最後の時、泣くか笑うかしかないのだと思いました」

そして、終戦の日、八月十五日が訪れた。「空は晴れわたり、珍しく爆音も聞こえない暑い夏日でした」(植木)。同百年史によると、登校した一、二年生が玄関前に整列して玉音放送を聞いた。松尾恵美子(榛高・昭26年卒)はその日のことを記している。「放送は聞き取れなかった。ただ担任の相曽先生が涙を流したのを覚えている。下校途中に周りから聞こえてくる話から日本が負けたらしいと知った」(「同百年史」)。

九月に始まった二学期は、それまでの授業とは一変した。敵国語として中止された英語の授業は復活し、逆に軍事教練、武道がなくなった(「同百年史」)。三年生だった海野クニ子(榛高女・昭22年卒)は語った。「軍事一本でやってきたことが否定され、学校はまったく変わった。戦争中のものは廃棄され、使用できた教科書も問題のある部分は墨で塗りつぶしたり、切除したりした」

▼チェーホフ読み議論

 教師がロシアの小説家チェーホフの「可愛い女」を読み、生徒が議論するという戦時下では想像もできなかった授業も海野は経験した。「主人公に貞操観念があると思うか、ないと思うかに生徒たちが分かれ、討論した。ないという人が増えたが、私は『彼女の対象は一人だった。貞操観念はある』との主張を通した」

学校は徐々に活気を取り戻したが、生徒たちの生活は楽ではなかった。中でも農家以外の家庭は食べ物の確保に悩まされた。当時、食料は配給。米もあるにはあったが、代わりにサツマイモ、トウモロコシの粉、豆かす、海藻などが配られた。海野は「食料はろくに手に入らなかった。闇(やみ)で買えた麦一升に一合の米を入れて炊いた。麦はいったんゆでるので、炊き立てはよく膨らんだ。だが、空気が抜けると、すぐに縮んでしまった。カボチャは家でも栽培できたので、よく食べた。今でも見るのが嫌なくらい食べた」と振り返った。

二十二年、同校は四年制から五年制に移行した。同百年史によると、その時の四年生のうち、八十五人が卒業し、あとの五十人が五年に進級した。そして同校は二十三年、学制改革で榛原第二高校に替わった。

 【注】カッコ内の「卒」は卒業年。敬称略。  


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