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 榛高誕生

3課程もつ総合高校に

 戦後の学制改革によって旧制の榛原中学校と榛原高等女学校は昭和二十三年春、榛原第一、第二高校に移行した。しかし、変革はそれだけにとどまらなかった。「榛原高校百年史」(今年十一月発行)によれば、県教委は一学校一通学区、男女共学、課程の複数制を原則とする高校の再配置を打ち出した。旧来の流れを引き継ぐ部分が多く、教育改革の徹底が求められていたためと「同百年史」はみる。そして、同じ川崎町(現・榛原町)内の榛原第一、第二、近隣の相良高校の三校統合問題が再浮上した。

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榛高第2回卒業記念誌に掲載された茶道、生花のクラブ活動の写真(赤塚さん所有の記念誌から)

▼懸案だった統合問題

 統合問題は終戦直後からの懸案だったらしく、榛原高校の初代校長、後藤倭彦は当時の様子を記している。「榛原郡には小さな学校がそこここにあるという状態でしたので、われわれはこれらを統合して大高校を築きたいと思ったのです。この統合問題で相良を中心としたグループと川崎を中心としたグループが興奮して、度々県の教育委員会へ怒鳴り込むといったこともありました」(「同百年史」)。文面からは第一、第二高校側が統合に意欲的だったことがうかがえる。  統合問題には教師だけでなく、生徒たちも積極的に動いた。榛原高校初代生徒自治会自治委員長の平野進(榛高・昭25年卒)は振り返る。「榛南に大規模な高校をつくりたいと願い、生徒も協力して活動した。町長、村長を訪ねたり、県教委に陳情した」。最終的に、地元に高校を残したいとの住民の強い思いから相良高校は合流せず、二十四年春、榛原第一、第二の両高校が統合し、現在の榛原高校が誕生した。  発足時の榛高の規模が「同百年史」に説明されている。全日制が普通科、家庭科、農業科の三課程。定時制もつくられ、普通科と農業科が設けられた。幅広い分野を教える総合高校であり、勤労者への門戸を開いた画期的な学校だった。しかし、足取りはおぼつかなかった。「男女共学を心配した親が旧制五年で卒業させたものが多く、新制高校三年として共学に移行した女子はわずかに二十四人であった。彼女たちは三年D組に編入されることになる。その組は別棟に一教室を作り、男子生徒が二階の窓越しに眺めるような男女共学とはほど遠い状態だった」(「同百年史」)。校舎の整備も追い付かず、第一、第二高校、元幼稚園の建物を利用した分散授業が行われた。

▼活発な生徒会活動

 だが、生徒たちは個性にあふれ、輝いていた。教科書だけでなく、さまざまな本を読破し、自己研さんを積んだ。歴史の試験の答案をすべて英語で書き、教師を驚かせた生徒も現れた。学校生活の枠組みも生徒自らつくりだした。榛高の二代目自治委員長の赤塚照一(榛高・昭26年卒)は「生徒会規約もわれわれで考えた。ゼロからの出発だったが、自分たちの手で自分たちの生活をつくるんだとの気概にあふれていた」と話す。  赤塚によると、生徒会の活動は校内美化から図書の整理、病気の予防、購買、体育大会や文化祭、クラブ活動の運営など多岐にわたった。平野は言う。「教師と生徒間のトラブルの調停までした。今思うと不思議なくらい、一切合切任されていた」

 【注】カッコ内の「卒」は卒業年。敬称略。  


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