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戦後間髪を入れずに新制高校が設けられ、教育の停滞を防ぐ努力が続けられたが、それまで教え込まれた価値観があっという間に崩壊し、旧制の中学校、女学校、榛原第一、第二高校、そして榛原高校と母校が転々とした目まぐるしい変化は生徒たちを困惑させた。 生徒たちは新しい学校生活を自分たちの手で切り開くのだと熱意にあふれたが、どこか寂しさを漂わせた。そんな時、掛け値なしに喜び合える出来事があった。卓球部と野球部の活躍だった。
榛原高女、榛原第二高、榛高の卓球部に所属し続けた加藤=旧姓増田=節子(榛高・昭25年卒)はサウスポーの頭脳派プレーヤーと評された。卓球部の顧問に「壁のように向こうの打つ玉をみな返してしまった」(「創立八十周年記念榛原高校校誌」)と言わしめた加藤は県大会を破竹の勢いで勝ち、二十三年の福岡国体、二十四年の東京国体に連続出場した。さらに一般の部で出場した全日本卓球選手権では銅メダルに輝いた。金井=旧姓浜崎=好示(榛高女・昭和24年卒)、浦野正海=旧姓名尾崎久江=(榛高・昭26年卒)、山本=旧姓神崎=敞子(榛高・昭26年卒)らと出場した山静大会も団体優勝をさらった。 脇目もふらず純粋に卓球に挑み、好成績を上げる加藤の姿に生徒は沸き、壮行会では加藤を自分に重ね合わせて、自らを奮い立たせたという。加藤は振り返る。「卓球が好きで夢中で練習し、試合に臨んだ。つらいこともあったが、充実していた。バラ色の日々だった」
加藤のほかにも、生徒を奮起させた人物がいた。野球部の池田節次(榛高・昭25年卒)だ。「榛原高校野球部史」によると、池田は十九年に榛中に入学した。既に野球部は休止になっていて剣道部に籍を置いた。戦後、野球部が復活すると同時に投手としての頭角を現した。そして左足を高く上げるフォームの池田の名声を高めたのは二十三年の県スポーツ祭。「静岡一高と対戦し、1対0の接戦で惜敗したとはいえ、善戦をうたわれた。池田投手の長身から繰り出される速球と切れのいいカーブ、大きく落ちるドロップは静一高の強打線を完全に料理して三振十七を数えた。県下随一の折り紙がつけられたのもけだし当然であろう」(「同野球部史」)。 池田の快投は母校の生徒たちを元気づけ、勇気づけた。「重苦しい戦争の時代から、学校の統合という混乱の中、学校内を明るい雰囲気にしたのは池田投手の活躍である」(「榛原高校百年史」=十一月発行予定=)。池田の頑張りは地域にも波及した。「同百年史」によると、野球部の対外試合が行われると、学校周辺に看板が立てられ、地元の人たちが応援に集まったという。観衆でグラウンドは満員になり、野球部は入場料を集めて部費に活用したとも伝えられている。 加藤、池田とも当時の経験をとても大切にしている。加藤は「苦しくても目標に向かって進むことの大切さを学んだ。人生の中で大変なことに突き当たっても、あのころを思えば、乗り越えられる」と話す。池田の思いは「同野球部史」に紹介されている。「一貫して言えることはハングリーな精神力、チームワークに加えて健康な体と自信」。ほかの卒業生も加藤や池田に励まされ、奮起した日々を胸に刻み込んでいるに違いない。 【注】カッコ内の「卒」は卒業年。敬称略。 |
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