![]() |
|
榛原高校の定時制が始まったのは榛原第一高校時代の昭和二十三年。「榛原高校百年史」(十一月発行予定)によると、第一期生は男子二十九人、女子四人の三十三人。週五日制で、休みは水曜と日曜日。授業は昼間、行われた。二十四年に第二高校との統合で榛原高校が誕生すると、定時制は定員が百六十人に、コースも普通科と農業科に拡充した。
第一回卒業生の大石鬼九松(昭28年卒)は当時の様子を「同百年史」にこう寄稿している。「私たちが定時制を志したころまでは、私の村では私以前に中学校に進学できた人は明治以来、男女合わせて八人くらいしかいなかったように記憶している。どこからか榛高定時制が始められるという声が風の便りに聞かされた。これだ、とはやる気持ちを抑えて父親に夜学へ行かせてくれとせがんだ」。経済的な理由から学校に通えなかった人たちが勉強する場をどれほど強く求めていたかがうかがえる。 定時制には働きながら学ぼうとする若者や年配者、さらに、農業指導者養成所「培本塾」の塾生も集まった。二十五年、夜間授業が開始され、二十七年にはすべて夜間に移行した。しかし、設備は不十分だった。「同百年史」の中の回想などに実態が示されている。停電が多くて授業は度々、中断し、ローソクを立てて終業式を迎えた時もあったという。また、冬になっても割れた窓ガラスは修理されず、オーバーを着たり、手に息を吹き掛けて温めながら授業を続けたことも記されている。
二十六年に定時制に入学した坂下八栄(昭29年卒)は振り返った。「一緒に入学したのは七、八十人。一つの教室に入りきれず、廊下にも机を並べて学んだ。内容は全日制と同じだった。だが、徐々に生徒は減り、卒業したのは三分の一以下だった」。授業の質はいろいろだったようだ。生徒の質問に答えられない教師がいるかと思えば、英語の小説を教材に使ったり、海外生活が長く素晴らしい英語を教える教師もいたという。 それに、定時制ということで冷遇された節も見受けられる。坂下は「同百年史」にこうつづっている。「先生の一部には授業を放置して送別会にいってしまい、そのことを知ったわれわれは激情し先生の家に押し掛けて教室に連れてきて詰問したこともあった。そのころ(夜は)図書館も開かれず、当時昼間の係だった先生に「夜学生に利用させないのは差別待遇だ」と抗議した。退学覚悟で定時制を軌道に乗せるべく協議したりもした。環境整備を願い、県庁に押し掛けたこともあった」 周囲の状況に恵まれなくても、生徒たちは一生懸命、勉強を続けた。昼間、働き、夜間、勉強に打ち込んだ。時間が足りないと切実に思ったこともあった。「予習、復習をすると好きな本を読む時間はほとんどなかった。一日が二十四時間しかないのは不合理だと思った」(坂下) 生徒たちを奮起させたものは何だったのか。坂下は言う。「全日制で勉強したかったが、経済的理由で行けなかった。その悔しさ、つらさをばねにして頑張った」 【注】カッコ内の「卒」は卒業年。敬称略。 |
掛中・掛西百年史 御殿場高 躍進の百年 静岡新聞へ |