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 農業科

ビジョン欠け10年で幕

 榛原第一、第二両高校の統合によって昭和二十四年に誕生した県立榛原高校の大きな特徴は総合制だった。「創立八十周年記念榛原高校校誌」によると、全日制に普通科、家庭科、農業科、定時制に普通科、農業科が設けられ、定員約千人の大規模校が生まれた。しかし、八年後の三十二年に早くも総合制は破たんの兆しを見せた。県教委が高校の再配置を打ち出し、それに伴って農業科生徒の募集が停止された。

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旧幼稚園園舎を利用した榛原高校農業科の校舎(「90年の歩み―榛中・榛女・榛高―」より)

農業科はどんな状態だったのか。「同校誌」に概要が掲載されている。発足時の新入生は男子だけの三十二人。校舎は旧幼稚園の園舎、実習地は近くの秋葉山ろくに借りた農場と施設は貧弱だった。だが、入学生は二十五年四十五人、二十六年五十五人(うち女子三人)と急増した。さらに、二十七年、学区を全県に拡大したことで新入生は一気に増え、六十四人を数えた。

 施設整備のためにと川崎町(現・榛原町)、吉田町など地元自治体からの援助も続き、それを元に温室や畜舎を建設し、県費補助を得た二十六年には動力室、加工室、倉庫もできあがったという。二十七年、農業指導者養成所「培本塾」施設の利用も始まり、実習は稲、麦、茶、果樹の栽培から畜産まで範囲が拡大した。製茶室も整い、特産茶の製茶実習も始まった。

▼内容は後継者の養成

 しかし、急ごしらえの農業科だっただけに、数十年先を見通した教育は難しかった。培本塾生であり、農業科の生徒でもあった村松定明(昭30年卒)は振り返る。「稲作、野菜栽培、畜産などの実習を行い、机上の学習を続けたが、真新しさはなく、農家の仕事と内容的には同じだった。単に後継者をつくるだけの教育で、先端的な教育は行われなかった。もう少し近代的な教育を受けたかった」。当時は食料難。農業教育も当面の難局を乗り切ることだけに目を奪われていたことがうかがえる。

 さらに、農業科を形がい化させる行為も生まれた。当初、榛高が小学区制だったため、普通科に入学できない学区外の者が学区が広い農業科にいったん入り、普通科に換わるケースが出始めた。普通科と農業科の生徒の間の関係がぎくしゃくする時もあったという。農業科の教師を務めた戸塚実(榛中・昭14年卒)は「ホームルーム編成を配慮(普通科、家庭科、農業科の混合編成)するなどしていたが、普通科と農業科は目的が異なる課程。普通科の生徒がクラブ活動をしている時に農業科の生徒が下肥を担いでいることもあり、農業科が差別されて見られたことがあった」と話す。

▼研究発表会で優勝

 だが、生徒たちはひたむきに学習に取り組み、只井光雄(昭33年卒)が県下農業クラブ研究発表会で優勝する(「同校誌」)など気を吐いた。しかし、県教委の方針で三十四年、農業科はわずか十年でその姿を消した。

 戸塚は語る。「総合制とはどういうことなのか、あるいは将来の見通しはどうなのか。施設面も含めて十分な検討がないまま、県教委が総合制に踏み切り、その弊害が農業科に現れたと感じてならない。教育現場を考慮して総合制を始めれば、よかったかと思う」

 【注】カッコ内の「卒」は卒業年。敬称略。  


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