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 校歌制定

詩人2人の協力で完成

 校歌がなかった榛原高校生たちは、入学式や卒業式など行事のたびに、愛誦(しょう)歌を代わりに歌っていたが、それも限界に近づいた。校歌を欲しいとの求めが上がり、その声は瞬く間に全校に広がった。愛誦歌がつくられてから十年あまりたった時の出来事だった。

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榛原高校の校歌が表されている大きな木製レリーフ=同校

その辺のいきさつを当時、国語科の教師で、後に校歌制定委員となった川内利一(榛中・昭20年卒)が「榛原高校雑誌7号」に記載している。それによると、生徒の間で校歌をつくりたいとの機運が生まれたのは昭和三十六年ごろ。生徒会新聞で校歌を求める記事を数回にわたって掲載し、生徒会役員が学校側に要望を伝えた。生徒たちの思いは漠然とした希望ではなく、何としても校歌を欲しいという熱望だったことがうかがえる。

▼野球の応援に熱望

 愛誦歌は品もあり、他校の校歌と比べても何ら遜色(そんしょく)はなかったが、生徒はなぜ、校歌を求めたのか。同高教諭の中村肇(昭40年卒)、川内らの話を合わせると、理由が浮かび上がる。それは野球にあったらしい。愛誦歌はどちらかというと優雅なメロディーで、点を取った、取られたで一喜一憂し、大声を上げる野球の応援には、ちょっと不向きだった。さらに、一番を男子、二番を女子と分散して歌うことも支障となり、実際の応援では勇ましい旧制榛原中学校の校歌を「榛高健児の歌」として歌っていた。野球の応援にも適した校歌が欲しいとの生徒たちの切実な望みが一気に燃え上がったようだ。

 校歌制定委員会は作詞を詩人の三好達治(一九〇〇―一九六四年)に依頼することにした。三好は榛原を訪れ、同校にも足を運んだが、なかなか詞は出来上がらなかった。じりじりした生徒たちが学校側をただすほどだったが、三十九年春、三好が突然、亡くなり、この計画は宙に浮いた。委員会は戸惑いながらも、今度は三好の親友で詩人の丸山薫(一八九九―一九七四年)に作詞を願い、四十一年春、詞がやっと完成した。作曲家平井康三郎が曲を付け、同校の校歌が完成した。生徒が校歌を求めてから、約五年が経過していた。翌年、新校舎完成記念と合わせて校歌発表会が開かれた。

▼榛高生の理想を謳う

 「秀麗富士に理想を仰ぎ 悠久大井の語るを聴かん」「静波ここにきそいあり 進取を求め鍛えを越ゆる」とうたわれた校歌は榛高を取り巻く豊かな自然、榛高生が目指す姿を表し、生徒らを感動させた。三年生だった八木儀一(昭42年卒)は校歌の印象を語った。「榛原の海や山、川などが目に浮かび、素晴らしい校歌だと感激した。歌いやすくて、本当にいい校歌をつくってもらったとうれしくなった」

 榛原高校で校歌に送られて卒業したのは昭和四十二年卒の約五百人が初めて。「感激で涙があふれた」と八木は卒業式を思い出した。校歌が完成する少し前に、藤枝東高校に転勤した川内は夏の高校野球大会会場で校歌を初めて耳にした。その時の思いをこう記している。「ぼくにはそのメロディーがまだ歌えなかったが、大きく手を振る応援リーダーの白い手袋をながめながら、三好さんをはじめてお訪ねした夏からまる四年たった歳月のことを思った」

 【注】カッコ内の「卒」は卒業年。敬称略。  


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