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 野球場の松

変則ルールで練習試合

 昭和四十二年冬、榛原高校近くの竜眼山山すそに第二グラウンドが完成した。その場所は同校の前身、旧制榛原中学校の校長小田原勇が心血を注いでつくりあげた農業指導者養成所「培本塾」の元農地。思い出深い、大切な場所だったが、小田原は学校教育のためならと提供したという。

 しかし、すんなりと完成にこぎ着けたわけではなかった。

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榛原高校第二グラウンドにあった松の木(写真右)。(「90年の歩み―榛中・榛女・榛高―」の高19回アルバムより)

▼培本塾の農地を利用

 「榛原高校百年史」(十一月発行予定)に経緯が記されている。それによると、当時、同校の校庭は放課後になると、野球部、サッカー部、陸上部などでごった返し、隣の町営施設を借り、なんとか部活動をやりくりしていた。野球部長の飯田幸男(榛中・昭13年卒)、副部長の栗林昌弘(榛高・昭25年卒)らが元農地の提供を培本塾理事長の小田原に頼んではいたが、はかばかしい返事は得られなかった。培本塾の一角であることと、勤労教育の作業で榛中生が死亡した追悼の場所でもあったことが、小田原の決心を鈍らせたらしい。

 そんな折、校長の任期最後の年を迎えた浅井淳(榛中・大13年卒)が熱心に要請し、小田原から、陸上部が中心に使うグラウンドとすることで利用の承諾を得た。だが、難問が持ち上がった。同校は校庭から飛び出す野球ボールへの苦情が目立ったことから、計画とは違う野球場として使用を始めたが、レフトの守備位置付近に残された二本の松が支障を来し始めた。

 守備側は松で飛球を見失うし、打者も打球が松に当たって戸惑った。野球部員だった笹野井達彦(榛高・昭45年卒)は同百年史にこう寄稿している。「邪魔になったことはいうまでもなかった。今思えばおかしなことだったが、当時野球場を建設するための学校、その他関係者のご苦労がうかがえた。練習試合に来る相手校の生徒が、グラウンド内の大きな松を見て笑ったり、不思議な顔をしたような記憶が残っている。面白いもので工夫をすれば何とか試合はできるもので、変則ルールを考えだし、松の木に当たるとヒットで出塁できた」

 野球部員のほか、卒業生らも松の伐採を望んではいたが、利用計画を変更したいきさつがある上、「この木を切るとたたりがある」と伝えられて、だれも小田原に伐採を言い出せなかった(「同百年史」)。だが、昭和四十五年ごろ、異変が起きた。「野球に熱心な人が松にのこぎりの目を入れた。それも深い目で、強い風が吹くと倒れる恐れが出た」(榛高教諭の中村肇=榛高・昭40年卒=)。数年後、この松は伐採された。

▼土手の上段は本塁打

 だが、グラウンドには松のほか、もう一つの問題があった。それはライト側。距離が七十メートルと短く、打球が土手によく当たった。かつて同校野球部員で現在、監督の松浦弘季(榛高・昭60年卒)は言う。「高1の時、ライト側は既に拡張工事中だった。それまでの練習試合では土手に当たって止まると二塁打、上の段差まで飛ぶとホームランになったという」。今も、第二グラウンドは野球部専用で、部員たちが威勢のよい掛け声を交わしながら、練習に励んでいる。「今も狭いには狭いが、野球をやるのには困らない。目標は大きく言えば甲子園。のんびりしているので、それを打破して、活躍するチームをつくりたい」と松浦は張り切る。

 【注】カッコ内の「卒」は卒業年。敬称略。  


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