<39>

 家 庭 科

被服の職業人養成に力

 昭和二十四年、男子校の榛原第一、女子校の榛原第二の両高校が統合して生まれた榛原高校の大きな特徴は総合制にあった。普通科のほかに家庭科、農業科、さらに定時制が設けられ、生徒数約千人の一大教育拠点ができあがった。だが、大学進学率の増加とともに、農業科が廃止され、一般的な普通高校の色彩が強まった。そんな中で個性を発揮したのが女子生徒だけの家庭科だった。

▼バザーで道具費稼ぐ

haibara
榛地さんが大切にする服の作り方などを図解したプリント

 スタート時、家庭科が置かれた状態は劣悪そのもの。「創立八十周年記念榛原高校校誌」が様子を記している。「校舎、設備がととのっていたわけではなく、当初の一年は皆無といっても過言ではなく、旧二高の施設を借りて専門教科の授業は行われた。二十五年、川崎小学校の木造校舎が移築され、俗に家庭館といわれるものができた。古い校舎のことなので、地震の際の校舎のゆれはかなりひどく、検定委員として来校された他校の先生が大慌てで帰って行かれたことがあった」

 建物だけでなく、備品にも事欠いた。調理実習に必要な食器もわずかで、被服用の用具も不足していた。創立と同時に家庭科の教壇に立った三輪かつゑ(榛高女・昭4年卒)は振り返った。「とにかく道具が少なかった。県費だけではまかなえないので、学校でバザーを行い、道具類をそろえるお金をつくった」

haibara
榛原高校家庭科最後の生徒たち。3年生の時の遠足の記念写真(榛地さん所有)

 設備は不十分でも、生徒たちは気力に満ちていた。一生懸命に勉強し、教師も指導に精魂を込めた。同校誌によると、大目標の「被服の職業人に必要な基礎の習得」に向けて特に実技に力点を置いた。「入学者に対しては基礎技術のテストを試み、その能力程度に適する方法を考えた。昭和三十五年ごろからは高校家庭科技術検定が実施されるようになったので、積極的に参加し、卒業までに必ず二級合格ができるように実力養成に力を入れた。夏の制服ブラウスの製作を三年の教材に加えたのも注文仕立てに応ずる技術や心がまえを習得できればと考えたからであった」(「同校誌」)

 余談だが、三輪には家庭科ばかりでなく、男子生徒にまつわるほろ苦い思い出もある。「入り口に黒板拭きを挟んで、落ちるようにしたり、丸めた紙を黒板に投げ付けたりと男子生徒のいたずらが過ぎるので、一週間ほどそのクラスに行かなかった。そうしたら、代表が『かんべんしてください』と自宅に謝りに来ましたよ」

▼図解は大事な宝物

 勉強へのひたむきな取り組みと、はじけるような笑い声に包まれた家庭科だったが、進学競争の激化に伴って四十九年三月、二十五年間の幕を閉じた。最後の卒業生の中の岸端記子高橋(旧姓・野中)雪名榛地(旧姓・大石)れい子仁藤喜代子福世(旧姓・久保田)茂子らは時々、会って旧交を温める。話は尽きないが、「学校で学んだことが、今も役に立っている」と異口同音に語る。習得した和裁、洋裁、編み物すべてが生活、仕事面で活用できているという。

 榛地は授業で配られた、服の作り方などを図解したプリントを大切に保管している。「私の大事な宝物」と榛地は言う。そして面々は恩師の水嶋倭文(榛高女・昭9年卒)の熱心な授業に思いをはせた。「今思うと先生は私たちが卒業してからも困らないようにと親身になって教えてくれた」

 【注】敬称略。  


掛中・掛西百年史 御殿場高 躍進の百年  静岡新聞へ