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榛原高校野球部の歴史は古く、同校の前身、郡立榛原中学校が発足した明治三十四年に産声を上げた。今から九十九年前だ。「創立八十周年記念榛原高校校誌」によると、当時、校技として認められたのは野球と撃剣(剣道)の二つ。正式な運動部もその二つの部だけだった。
さらに、同校誌は、技術の巧拙を争うことによる弊害を除くために対外試合が禁止されて校内試合がもっぱらだったことを紹介している。そして、対外試合ができるようになったのは大正十一年。「半田(榛中・大8年卒)、大石三郎(榛中・大11年卒)、八木八十右衛門(同)、笠原武爾(同)、大石専策(榛中・大7年卒)らが校長宅に座り込むなどして時の校長をくどき落とした」(同校誌)。
だが、対戦成績は惨憺(さんたん)たるもの。「掛川16―6榛原」「韮山12―1榛原」「静岡13―0榛原」「神奈川師範11―1榛原」などのスコアが同校誌には並んでいる。部員だった新田明(榛中・大15年卒)は「榛原高校野球部史」にこう寄稿している。「榛中はどのくらいの実力だったかと聞かれたら、『また負けたか敗中』とよく言われたように県内では一番弱い学校と答えざるを得なかったろう」 そして、昭和四年、衝撃的な出来事が起きた。前年、校長に赴任した小田原勇が、あまりの弱さを憂慮し、対外試合を再び禁止してしまった。中村誠(榛中・昭7年卒)は振り返る。「試合に出場できなくなった先輩たちが『情けない』とバットを地面にたたきつけて折ってしまった」。試合のできないつらさを堪え忍んでいた野球部員の我慢も二年後、限界に達した。
十数人の部員たちが「県大会に出場できないのなら、試験を受けない」と化学の教室に閉じこもった。これには小田原も折れ、練習試合の結果がよければ、禁止措置を解くことになった。 練習試合は好調で、野球部は二年ぶりに全国中学校大会県予選に臨んだ。立てこもりの張本人の中村は言う。「野球部員の唯一の喜びは甲子園につながる県大会での戦い。それだけに再び、出場できて本当にうれしかった。試合の時も以前とは真剣味が違った」。小田原も、もともと試合禁止という荒治療で、部員たちを奮起させようとしたとみられ、禁止を解除すると、野球部の練習に積極的に協力している。同校誌にはその姿が描かれている。「校長は慣れぬ手にまめをこしらえてノックバットを振られた」 その県予選は二回戦で敗退したが、その年の秋、部員たちを再度の衝撃が襲った。早稲田大学の名選手三原脩が榛中のコーチとして訪れた。 【注】敬称略。 |
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