![]() |
|
昭和十六年、日本は太平洋戦争に突入し、全国中学校野球大会は中止された。県大会も十七年までで中断した。「榛原高校野球部史」によると、榛原中学校野球部は十七年の県大会には出場したが、十九年、四、五年生の勤労動員で活動が止まった。
硬式の試合を再開したのは二十二年。他校に比べて遅かったが、池田が大活躍し、榛中野球部復活の強烈な印象を与えた。「同部史」の記録を見ると、二十二年春、県内屈指の強豪、焼津水産と対戦し、十四の三振を奪って引き分けにし、二十三年には県スポーツ祭準決勝に駒を進め、静岡一高に1―0で敗れたものの、十七の三振を取った。その年の秋、ノーヒットノーランを達成し、選抜県大会では三位に食い込んだ。 一試合で奪三振二十の記録もある池田は「スピードボールで追い詰め、垂直に落ちるドロップで決めた。遊びはせず、三球で勝負するのが信条だった」と語った。
池田の活躍から十数年後の昭和三十八年、榛原高校は劇的な試合を繰り広げた。沼津市高と対戦した全国高校野球選手権静岡大会三回戦。主将だった野中辰美(榛高・昭39年卒)は回顧した。「一点を入れられた後の九回裏。部長に呼ばれ、『何とかしろよ。このままじゃあ、明日の新聞の全国版だぞ』と言われた。はじめは何だか分からなかったが、ネット裏のカメラの列を見て、『このままだと完全試合だ』と気付いた」 八回までは相手を零点に抑えていたが、榛高も出塁はゼロだった。「とにかく出塁を、と願った先頭打者の当たりはピッチャーゴロ。だめかと思ったら、相手投手がハンブルしてセーフになった」と野中。それからは運が向いたように、次々に出塁し、2―1で逆転した。野球場は大騒ぎになった。
「野球は筋書きのないドラマ」と言われるゆえんだが、同校野球部には地味だが、心が洗われる話もある。「同部史」に掲載された「昭和62年7月 同窓会報」の伊村才次郎校長(榛中・昭19年卒)の随想だ。 「K先生から『対清水工高戦に敗れ、S君にとっては高校生活最後の試合となったその日、S君が父親に清酒を、母親にはケーキを買って帰り、“僕の野球も今日で終わりました。三年間どうもありがとうございました”と両親にお礼を言ったそうです』という話をききました。S君は正選手の座にすわることもなく、一途にチームの為に、毎日汗と泥にまみれて練習に励んできました。その後、S君に贈り物の理由を尋ねると『両親は三年間、毎日、僕の帰りを待って、どんな遅くなっても夕食を共にしてくれました。それに母は三年間、汗と泥にまみれたユニホームを洗い続けてくれましたから』と、さりげない返事が返ってきました。練習が終わって、我が家へ急いで自転車を走らせるS君の姿が、両親が暖かく迎える笑顔が目に浮かび、感動から私は一瞬声がつまって、次の言葉が出ませんでした」 【注】敬称略。 |
掛中・掛西百年史 御殿場高 躍進の百年 静岡新聞へ |