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第1章 「若草群像」
笠原 里子さん(背泳ぎ日本新)
(2002年11月1日掲載)
水泳一筋だった青春

日本新記録を樹立した際に贈られた表彰状を手に笑顔の笠原さん=浜松市富塚町
 「これは一年のインターハイの時の。こっちは三年の国体の」―笠原(旧姓新井)里子=浜松市富塚町、昭31卒=は、広げた数多くの表彰状やメダルを懐かしそうに手に取った。輝かしい過去の記録の数々こそ、信愛高(現浜松学芸高)で水泳に明け暮れた青春時代そのものだ。

 舞阪町弁天島生まれで幼いころから水泳に慣れ親しみ、中学時代から全国レベルの実力を持った笠原が信愛に入学したのは昭和二十八年。その年の全日本高校選手権五十メートル背泳ぎ、国体百メートル背泳ぎで日本新記録。高校一年にして「信愛水泳」の歴史の礎を築いた。

 国体三連覇という偉業の裏にはこんな“立役者”も。高三の国体。決勝を前にしてこわばる笠原に、コーチは「薬だから」とごわごわの紙に包まれた粉を手渡し飲ませた。試合後、聞かされた中身はなんとマムシの粉。「でも香ばしくておいしかったの。勝てたのはそのおかげかも」と楽しそうに語る。

 「別に選手になりたくて水泳をやってたわけじゃないから。泳いだらたまたま良い結果が出ただけ」。数々の栄光を築いたが、気負いもなく言う。「ただ私を支えてくれる周りの人の期待に応えたいという思いはあった」

 体育の名門天理大を卒業してからは母校に体育教師として戻り、プールの老朽化で五年前に休部になるまで、通算二十年間、水泳部の顧問を務めた。「結果が出た時の喜びは言い知れない。それを得るためには厳しい練習も頑張らないと」。目の前の部員に自身の姿が重なったことも。「今は大会を見に行っても自分が育てた選手がいない」とふと寂しげな表情ものぞかせる。

 「環境が整って、好きなことをやらせてもらえるなんて本当に幸せ」。入学当時プールも水泳部もなく、一人他校のプールを借りて練習を積んだ記憶がよみがえる。「やらない内から『できない』なんて言う子がいると、歯がゆくてじだんだ踏んじゃう」。かつての信愛のヒロインは現在、母校の保健体育の非常勤講師として、今も変わらぬまなざしで現役の生徒に熱いエールを送っている。

(文中敬称略、題字は書道コース1期生石塚智沙子さん)
(木、金曜日に掲載します)


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