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女性は浜松・富塚中教諭時代の教え子だった。十年間の教師生活に終止符を打ち歌手の夢を追った水船。タキシード姿で精いっぱい歌声を響かせるかつての恩師は、教え子の目にまぶしく映る。 「せっかく、先生色を払しょくしようという時に!」と、思わず笑顔がこぼれた。 ピアノ教室を営む親の影響で、早くから音楽に慣れ親しんだ。中学時代に志を固め、「どっぷり音楽につかってやろう」と信愛学園高(現浜松学芸高)音楽科の門をたたいた。 入学当初、クラスの男子は二人。二年からはたった一人に。「一生の友人ができる時期を犠牲にした。唯一の救いは音楽」。楽器店に飛び込んでレコードを片っ端から聴きあさり、作曲家や演奏家の情報収集に熱をあげた。 声楽専攻でパートはバリトン。古屋豊の指導で歌の流れやアクセントを身に付けたが、低音域に苦しみ、進学した国立音大では挫折を味わった。「作ったような声。器用な歌になってしまう」と思い詰め、教育の道に気持ちが傾いた。 江南中で四年、富塚中で六年、音楽指導に力を注いだ。吹奏楽部を教える傍ら、折を見て浜松市民オペラなどに出演。充実した教師生活も「何かを極めたという実感が持てない」とのわだかまりは残り、テノールへの転向を機に心が揺れた。 「自分の声質がテノールだと気が付いた瞬間、爆発した。もう一度、行き着けるところまで行ってみたいと思った」 三年生の進路指導で「夢を持て」と語り掛けるうち、自分への問い掛けがにわかに募った。三十歳を過ぎて一念発起。教師を辞め、イタリアに留学した。昨年帰国して二期会の試験に合格し、来年九月に初舞台を踏む。 「教師だった十年間は、音楽家のキャリアとしてはマイナスだが、人生にはプラスに働いた。失ったものを感じられる分、第二の人生を充実させたい」 教え子たちは口をそろえて言う。「先生、若返ったね」。
(文中敬称略)
(木、金曜日に掲載します)
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