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男子部と女子部に分かれ、萬吉が男子を、妻のみつが女子を指導した。修身や算術、作文などを教え、女子には裁縫を課した。門下から三立製菓の創業者松島保平らを輩出。同二十八年には、萬吉の東京高等師範学校(現筑波大)入学、みつの東京裁縫女学校(現東京家政大)入学を機に閉校したが、女子部は後の浜松裁縫女学校(現浜松学芸高)の礎となった。 佐村八郎の評伝によると、萬吉は明治二年、細江湖畔の気賀町に生まれた。十二歳で父を亡くし、山で薪を採って生計を立てたという。かたくなな性格で、十四歳の時に入門した私塾では教師と衝突し破門に追い込まれた。萬吉は「芳竹(放逐)」と雅号し、誇りを貫いたとの逸話が残る。 俳人松島十湖の食客となり報徳思想に触れる一方、書もたしなみ、石屋の村石家に泊まり込んで碑文を刻んだ。その村石家の二女がみつ。みつは萬吉の着物を繕うなど世話を焼き、萬吉は学問の必要性を熱心に語ったという。萬吉二十五歳、みつ二十歳で結ばれた。 夫妻の女子教育への情熱は学舎閉校後も衰えなかった。同三十五年十月三十日、浜松裁縫女学校の設立認可を申請し、約一カ月後に県知事山田春三の承認を得た。貴族院議員長谷川貞雄、遠州銀行頭取平野又十郎が設立者となり、浜松町利(現浜松市利町)の平野邸を間借りして開校した。初代校長はみつが務めた。 「本校ハ女子ノ尤モ必要ナル裁縫ヲ教授シ、且ツ一家ノ良主婦タル品格ヲ養成センガ為メ」―。静岡民友新聞に掲載された生徒募集広告からは、「良妻賢母教育」の思想がうかがえる。みつにとって裁縫は女性の自立に不可欠な専門技術で、礼儀作法や人格を養う一つの“道”だった。 一期生は五十三人。浜松町のほか磐田、小笠、周智の各郡から集まった。地元の名士金原明善も共鳴し、自宅で開いていた塾の学生をみつに託したという。利町の校舎は手狭となり同四十年、浜松町常盤(現浜松市常盤町)に新築移転した。
(文中敬称略)
(木、金曜日に掲載します)
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