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第2章 「校史編」
中村みつ初代校長回想
(2002年12月12日掲載)
厳しかった情操教育

みつに仕込まれた和裁の技術。手縫いの和服と帯を広げる服部さん=浜松市湖東町の自宅
 当時、湖東町の自宅から下池川町の浜松高等家政女学校(現浜松学芸高)に続く道は、松林に囲まれた起伏の激しい砂利道だった。雨が降れば泥道になる通学路。はかま姿の服部(旧姓松尾)ちゑ=昭6卒=は自転車をあくせくこぎながら一路学校を目指した。駐輪場に自転車を止めると、校舎近くからいつもの怒鳴り声が聞こえる。

 「お座り。あのお皿の洗い方は何ですか。もう一度洗ってらっしゃい」

 初代校長中村みつが、後の三代目校長中村春子の行儀をとがめる。春子だけではない。みつはすべての生徒にとって親のような存在だった。校舎横に校長住宅があり、寄宿の生徒と寝食を共にしたという。

 毎朝、教室前の廊下は生徒の笑い声であふれた。ところが、気配を察して声がやむ瞬間がある。誰ともなく二列に分かれ、壁際に直立し会釈する。「みつ先生でした。足音を全く立てずに教室に入るんです」。

 礼儀作法の時間。一人ずつ茶をたて、みつの前に運ぶのだが、待ち時間が長い。ある生徒が茶を運ぼうと正座を崩した途端、足がもつれてひっくり返った。皆「わはは」と大笑い。するとみつは「わははとは下品な。笑う時は右手を口元に当てて、おほほと三言発しなさい」と一喝した。

 厳格な情操教育こそ「良妻賢母教育」の髄。ひいては女性の自立、自活に結び付くと信じながら、礼節、品格を身に付けさせた。服部はこんな一言を覚えている。「女がしっかりしなくては良い子ができない。家庭をまとめる仕事は、男にはできないことです」。

 明治四十四年に夫の萬吉が病没し、経済的な後ろ盾を失った。親族は学校経営をあきらめるよう進言したが、みつは固く拒んだ。男社会の風潮色濃い明治期、女手一つで学校を背負った気丈な人柄は評判となり、誠心高等女学校(現浜松開誠館校)創設者長谷川鉄雄の妻千瀬子らと共に「浜松の三女傑」と並び称された。

 裁縫の時間はとりわけ厳しかった。少しでも手順を誤ると叱責が飛び、作品の出来が悪いと容赦なくほどいていった。だからこそ「丁寧に作ってありますね」との褒め言葉が頭を去らない。「裁縫はどの学校にも負けなかった」。服部は誇らしげな表情を浮かべ、たんすにしまった手縫いの和服と帯を広げて見せた。

(文中敬称略)
(木、金曜日に掲載します)


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