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昼食の時間。中村は日替わりで各学級を回り、生徒と食事を共にした。杉本(旧姓鈴木)郁代=同市西鴨江町、昭30卒=が何気なく目をやると、食事を終えた中村が弁当箱にお湯を注いでいる。「ご飯を一粒も残さないように、湯をすすって食べていたんです」。 明治三十三年、倉吉安吉の四男として小笠郡大浜町に生まれた。小学校時代から文学を好み、青年期は理想主義に傾倒した。大正八年に小学校で教えた際には危険思想の持ち主と誤解され、教職を追われかけたという。 中村家の養子となり、東洋大の哲学倫理学科に学んだ後、昭和三年から浜松高等家政学校(現浜松学芸高)の教壇に立った。同十七年に校長に就任し、三十三年に急逝するまで「信と愛の教育」に心血を注いだ。 「信とはまごころ、疑のない心」「愛とは私心をはなれた広々とした心」「信と愛とは一切の文化を創造する最高最深の生命力」。学校創立五十年史に、中村の思想の一端が刻まれている。 毎朝生徒が講堂で座禅を組み、中村らの講話を聞く「アソカ会」、奥山方広寺の宿泊訓練、天林寺での夏期修養会など、東西の宗教哲学に触れる行事が習いとなった。 玉木(旧姓杉本)悦子=同市市野町、昭29卒=は、漢の功臣韓信の故事を引いた中村の訓話を思い起こす。「偉人伝から、忍耐や寛容の気持ちを教えていただきました」 宗教色を帯びた行事や授業には、少なからず抵抗を覚えた生徒もいたようだ。北川(旧姓榑松)貞子=同市三組町、昭29卒=は「校長先生の話はちんぷんかんぷんで、長いなあと思っていた」と打ち明ける。一方で静かに座禅を組み、自分の心と向き合った経験は、今に生きているという。 「何か苦難にぶつかった時、耐えられる自分に気が付くんです」 多くの卒業生が教室や廊下でごみを拾う中村の姿を記憶している。「信と愛の教育」の本質は、理屈や題目ではなかった。
(文中敬称略)
(木、金曜日に掲載します)
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