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午前十時、小林(旧姓古山)綾子=浜松市鴨江、昭20卒=は塗料を積んだトロッコを押し、中沢工場に向かっていた。突然、警報が鳴り響き、身構える間もなく爆音にさらされた。隣の北小から土煙が上がった。 トロッコを投げ捨て、近くの防空壕(ごう)にたどり着いたが、雨水がたまって飛び込めない。入り口の土塁にへばり付き、頭を伏せてやり過ごすしかなかった。爆弾がはじけるたび、グラグラと地面が揺れた。 「しっかりしろ!」。見回りに出ていた校長の中村春治郎と体育教師村瀬兼吉が駆け寄り、震えて足が動かない小林を引きずりながら学校裏山の防空壕に避難した。「あの時見た二人の顔は今でも忘れない」と話す。 同二十年六月十七日深夜から十八日未明にかけて続いた大空襲。浜松市街に六万発の焼夷弾が降り注ぎ、死者千百五十七人、焼失家屋は一万五千棟に上った。火が付いたまま逃げる人々、防空壕で抱き合いながら黒焦げになった犠牲者の姿。鈴木康代=同市入野町、昭25卒=は、昨日のことのように惨状を思い出す。 学校は燃え残ったが、同年七月二十九日深夜の艦砲射撃では大損害を被った。中村美代子=富塚町、昭24卒=は「照明弾で真昼のように明るくなったかと思うと、艦隊がドカンドカンとやりだした」と記憶をたどる。七発の砲弾が学校に落ち、南校舎は「く」の字形に折れ曲がった。校庭に十メートルの穴が開き、砲弾やガラスの破片が散乱した。 戦争は職員一人、生徒五人の命を奪った。敗戦の夏、生徒は焼け野原を歩いて通学を再開。にかわを塗り固めた「代用ガラス」の教室で勉強し、体操の時間に裏山の土を運んで防空壕を埋めた。 日ごとに疎開先の生徒が戻り始めた。同二十二年に着任した数学教師袴田要生は、終戦後の開放感あふれる学校生活を懐かしむ。「精神的に荒廃した子はいなかった」。生徒の笑い声が教室の空白を埋め、学舎は潤いを取り戻していった。
(文中敬称略)
(木、金曜日に掲載します)
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