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第2章「校史編」
中村春子 3代目校長
(2002年12月26日掲載)
女子教育に生涯懸ける

修学旅行の船上、記念写真に納まる春子校長。左端が榊原さん
 三代目校長中村春子は学園と共に生まれ、その生涯を学園と共に歩んだ。母みつが掲げた“良妻賢母”教育の良き理解者として、また、夫春治郎がまい進した「信と愛」教育の後継者として、戦後の女子教育に命を懸けた。

 近寄りがたい厳格さと、いつも笑みを絶やさない柔らかな物腰を併せ持った春子は、生徒からあこがれと尊敬のまなざしで見つめられていた。「雲の上の存在。廊下で擦れ違ってもお顔を拝見できませんでした」。石田(旧姓原)育代=掛川市上西郷、昭35卒=は、春子の黙礼が印象に残っている。校長でありながら自ら頭を下げる、そんな女性だった。

 明治三十四年四月十四日、父萬吉、母みつの元に生まれた。同じ年、学芸高の前身「不如学舎」が誕生する。京都府立第一高等女学校を卒業した春子は大正十二年、春治郎と結婚。みつの下、家庭科の教師として教壇に立つ。昭和十七年にみつが他界し、春治郎が校長に就くとやがて退職。夫を陰から支えた。

 春治郎が急逝した昭和三十三年、深い悲しみを乗り越え、春子は校長として学園に戻ってきた。五十一年に退任するまで講堂兼体育館の新設や学園全面鉄筋化などの設備の充実、音楽科の設立を図り、家裁調停委員や民生委員など数々の地域社会事業にも携わった。

 何より春子が力を注いだのが礼法。春治郎が始めた「アソカ会」は春子が校長になって以降、その要素を強めた。お茶の入れ方やお辞儀の仕方を率先して事細かに説明した。

 「春子先生が教えてくれた礼儀作法は今でも基本になっている」と多くの卒業生が話す。生徒にとって春子は“偉大な母”でもあった。榊原(旧姓小栗)政代=岡崎市大西町、昭39卒=は、春子との思い出の写真を今でも大切に取ってある。修学旅行での一枚。鳴門海峡を渡る船の上で揺れを怖がる榊原の背にそっと手を添え「大丈夫よ」と慰めてくれた。「私たちをいつも母親のような優しい愛情で見守ってくれました」。

 春子は第一校歌の一節にある“手弱女(たおやめ)”そのものだった。か弱い女性ながらも、その力を結集し、一生懸命に努めれば困難を切り開くことができる―。春子はその身をもって、学園の目指す女性像を体現したのだった。

(文中敬称略)
(木、金曜日に掲載します)


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