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四歳からピアノを弾き始め、信愛学園高(現浜松学芸高)音楽科にピアノ専攻で入学した。なかなか芽が出ず思い悩み、服部頴明(現理事長)の勧めで楽理専攻に転向。二年次から東京芸大の船山隆らの下に通い、音楽史や音楽社会学、作曲理論などを幅広く学んだ。 ちょうどそのころ、大阪で万国博覧会が開かれていた。夏休みに四期生の安藤博らと足を運び、作曲家武満徹のパビリオン「鉄鋼館」に出会う。客の退席にも構わず、退屈な単旋律を弾き続ける演奏家、聴衆の意志が曲の終わりを決める果てしない楽曲―。現代音楽の面白さを知らしめた「鉄鋼館」での前衛的な経験は、その後の評論活動の方向性を定める原体験となった。 お茶の水女子大大学院に籍を置いた昭和五十五年、現代音楽の祭典「パン・ムジークフェスティバル」の評論家コンクールに応募し、徹夜で仕上げたコンサート評が第一位に輝いた。受賞を契機に、当時は珍しかった女流評論家としての執筆活動が始まる。米国留学を経て欧米の音楽事情に精通し、辛口の評論はさらに的確さを加えながら、音楽誌や交響楽団の機関誌、新聞の紙面を飾った。 「聴いた音楽の魅力を引き出し、文章で補うのが評論家の役目。そのためには時代感覚、社会性、文章力、教養が必要です」。時に作曲家から敵視されるほど、激しい論陣を張る。「言うべきことは言わなければならない。そのためにはまず勉強」ときっぱり。 作曲家の個性を育てた環境を丹念に調べ、作品に込められた思想に肉迫する。一方でその音楽が鳴らされた時代背景を分析し、聴衆の気持ちを探る。「作家と聴衆の両方の気持ちを代弁できた時、素晴らしい評論が生まれる」という。 音楽を紹介する評論家の姿勢は、音楽を演奏する音楽家の姿勢に相通ずる。「良い音楽に残ってほしい。それを皆に聴いてもらいたい」。高校時代にピアノ奏者の道を断った柿沼の、もう一つの音楽表現がそこにはある。
(文中敬称略)
(木、金曜日に掲載します)
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