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平成八年を境に、進学校の道を歩み始めた浜松学芸高。授業計画の再編が喫緊の課題となる中、行事の見直しは必至だった。加えて、学校主導の伝統行事は形がい化の兆しをちらつかせていた。 ときわ祭の前身「学園祭」は昭和四十年以降、毎年開かれてきた。四十年代半ばから五十年代初頭には演劇、映画、弁論大会などに体育祭も加え、一週間近い日程の一大行事となった。 五十三年から体育祭と切り離し、文化祭として二日程度の会期に縮小。六十一年に「ときわ祭」と改称し、チャリティーバザーやステージショーなどを実施してきたが、内容に大改編無く十年余りを経過した。 袴田らは校長を説得するため全校生徒にアンケートを行い、七、八割から「やりたい」との回答を得た。その結果、ゴーサインを勝ち取ったが、「今まで通りではなく、やりたい人の意志を優先させねばと考えた」。 各クラス、部活から有志を募って実行委を作り、生徒会と共催する運営形態を確立。各自が自由にクラス展や模擬店などの出し物を企画した。「学生らしい手作り感」を追求した、学生主導の「ときわ祭」が実現した。 「自分たちの手で、大きなことをやろう」。鈴木力哉=平14卒、浜松市長田町=が生徒会長を務めていた平成十三年には、二万個の空き缶を使った縦十メートル、横十四メートルの巨大な壁画の制作に挑戦した。 壁画の絵柄は、寄付などで協力してきた自然保護団体「サンクチュアリジャパン」にちなみ、海亀を選んだ。制作期間はおよそ二カ月。缶の回収、果てしない水洗いの作業、強風との戦い―。苦労の連続だった。 正門から入場した際、真っ先に左手の壁画が目に付く。思わず立ち止まったり、写真を撮る来場者を見て「うれしさがこみ上げた」。壁画は結束の象徴。「一番の思い出として残っている」。 翌年はW杯の壁画がときわ祭を彩った。制作に携わった和久田朋希=平15卒、同市西伊場町=は「祭りが終わった後、涙が出た。学校のことが好きになれた」と感慨を込めた。
(文中敬称略)
(木、金曜日に掲載します)
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