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明治三十三年、浜松町長中村忠七が文部大臣に提出した「浜松高等女学校設置認可稟申」をきっかけに浜松市立高は生まれた。 同三十四年、静岡県浜松高等女学校は浜松幼稚園跡に創設された。 当時の記録によると、「校地は五百七十八坪。校舎は階上五十二坪、階下六十三坪五合」の木造二階建て、かわら葺きだった。幼稚園舎をそのまま仮の校舎として女学生が通い、普通科目に家事、裁縫の家庭教育を加えた十三科目を学んだ。 仮校舎を出発点とする学校の草創期、明治から大正時代に掛けて町民は遠州地方で唯一の女学校を「浜松のお茶の水」と呼び、注目した。 開校時こそ百六十人の募集人員に対して百二十四人しか集まらず、全員が入学を許可されたが、のちに試験の倍率は三、四倍。“才女”ぞろいが町のうわさになる。親子四代が浜松高女、市立生という寺部幸子(88)=高女29回、蜆塚=は、母足立寿=高女10回、故人=が女学校や女学生に町民の注目が集まったことを話していた記憶は無い。「『市立出身はお嬢さん』『結婚するなら市立出を』という評判を通っている私たちは全然意識したことがなかった」と話す。しかし、総定員は明治四十年には四百人、大正七年には六百五十人と増え続け、市立に対する町民の関心が高まっていったことを物語っている。 当時の女学生の気品、名家の子女ぶりを感じさせるエピソードが残っている。生徒は「エビ茶のはかまを一週間に一度ずつ自分で染め直し、寝押しをして身なりを整えた」。良妻賢母型教育と女性のしなやかさが息づく女学校だからこそ今にも伝えられる話だ。 日露戦争の勃(ぼっ)発、明治天皇の崩御、第一次大戦と時代の大きなうねりの中にあっても、女学生はテニスやなぎなたなどの当時の時代の先端を行くスポーツに励み、一部の上流家庭にだけ許された高等教育をおう歌した。 百年の歴史の中で、女性子女教育の中身は変化してきている。しかし、「浜松のお茶の水」の気風は現在も受け継がれ「女子ヲシテ高等普通教育ヲ受ケシムベキ学校」としての地位を築いている。 (文中敬称略)
(水、木、金曜日に掲載します)
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