第1章 「高女生誕生」(5)

学舎4遷 空襲で焼失も


馬冷校舎から作左山校舎への移転当時の思い出を語る村松すゑさん=浜松市積志町
 「馬冷(うまびやし)の校舎に入学しましたが、二年の時、作左山の校舎に移りました。机もみんな自分で運んで。狭くて古い学校から運動場が広々した新しい学校に移り、みんな喜んでいました」。村松すゑ(92)=高女24回=は浜松市積志町の自宅で、卒業証書を手に、遠くを見るように目を細めた。

 浜松高女(浜松市立高)は創立の地、元城町から現在の広沢まで、四回校舎が変わった。元城校舎は、現在の国道152号の西側、オフィスビルが立ち並ぶ一画にあった。

 浜松市立高に保存されている資料の中に浜松高等女学校の「校友会報告書第三号」(明治三十九年発行)がある。当時は、学生の年齢や修業年限もさまざま。三十八年の第三回卒業生四十四人の中に、創立当時の一年生が十八人含まれた。

 十八人に対する創立当初の思い出の聞き書きがあった。幼稚園舎を校舎に利用した“仮校舎”で雨の時、机の上に雨漏りの水滴が落ちてきたり、窓から雨が吹き込んだりして生徒たちを悩ませた様子が記されている。

 明治三十四年に始まった「元城」時代は二回、計七十六人の卒業生を送り出した。明治三十七年七月、元城町から松城町馬冷、現在の開誠館高校付近に校舎を新築した。「馬冷」時代は十九年間続き、田辺友三郎校長が「誠・愛・節」の校訓を制定している。

 生徒数が増加し、大正十二年、定員八百人まで膨れ上がった。馬冷校舎も手狭となり、同じ年、松城作左山の現在の市立中部中辺りに校舎を新築し移転した。「作左山」時代は太平洋戦争が終わるまで続く。

 「中興の祖」黒田伝次郎校長が登場。スポーツでも全国的に知られるようになった。昭和二十年六月の空襲で校舎が焼失、分散授業を行った。

 二十二年、現在地の広沢に移り、翌年、市立高校となった。わずか一年だが、男子も学んだ。合併商業科や看護科などを併設した時期もあった。

 昭和三十一年から八年間、浜松市立高の教壇に立った元天竜養護学校長鈴木一郎=高町、故人=は同五十四年に、校舎四遷の歩みの研究成果を、郷土研究誌に掲載。「輝く歴史と伝統は、近代的な息吹を加えて生徒の学校生活やものの考え方に大きな違いが見えるに至った」と肌で感じた“いちりつ”の変化を綴った。

(文中敬称略)

(水、木、金曜日に掲載します)


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