第1章 「高女生誕生」 (7)

日本で最初の舞台女優


大正7年に撮影した帝国劇場女優10周年記念の午餐会の記念写真。田中かづよ(勝代)は前列左から3人目。前列左から6人目が渋沢栄一、右隣が大倉喜八郎など財界巨頭が並んだ
 明治三十八年三月に卒業した高等女学校第三回卒業生四十四人の中に田中かづよ=故人=の名がある。田中は後に帝国劇場付属技芸学校の一期生田中勝代となった。春野町出身の故白井鉄造宝塚歌劇団理事は「帝劇女優が日本で初めて出来た女優だから、田中さんは日本の『女優第一号』でわれわれの大先輩」と語った。浜松高女の卒業生が早くも世に出た。

 浜松市積志町にある田中の生家は、現在歯科医院となっている。田中の姉の孫にあたる歯科医田中康夫(70)は「小学校に入るかどうかという年齢の時に一、二回会ったことがある。背の高いおばさんだったという印象しかない」と話す。

 現存する田中の資料は少なく、女学校時代の記録はほとんどない。田中の甥にあたる小沢舜次=春野町、故人=が、実家に残る写真や資料などを集めて、自費出版した「帝劇女優田中勝代と田中家の人々」が数少ない資料の一つ。その中に大正七年九月十五日に撮影した一枚の写真がある。

 田中ら女優陣と一緒に渋沢栄一、大倉喜八郎、岩崎弥太郎ら財界の巨頭らが写真に収まっている。

 田中は篤農家の七人兄弟の五番目として生まれた。松城町馬冷に移転したばかりの浜松高女を卒業後、医師の兄の手伝いをしていたが、進学希望が強く、単身上京。女子大に進んだが、日本の近代演劇の生みの親川上音次郎が財界の支援を受け設立した「帝国女優養成所」(後の技芸学校)の生徒募集記事を目にして、応募した。

 一期生は田中を含め十一人で校長は川上の妻貞奴。脚本の講義、和洋の舞踊や音楽、化粧の仕方など俳優に必要な知識や技能を身につけ、卒業後は帝国劇場の座付女優として活躍した。

 良家の子女が役者になることについて、世間の批判は激しかった。同じ一期生の中に、代議士の父から勘当され、母校の女学校の同窓会名簿から名前を抹消させられた女優もいた。田中も、事実上の家長だった兄から勘当同然の扱いを受けたという。

 帝国劇場で天覧芝居が上演されてから、世間からも次第に認められ、田中も墓参りなどで郷里に帰るようになった。

 田中は、女優引退後、築地で料理屋を開いたが、昭和十九年九月に病気療養先の三島で亡くなり、遺骨は田中家の菩提寺に葬られた。

(文中敬称略)

(水、木、金曜日に掲載します)


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