第1章 「高女生誕生」 (9)

思い出多い「曳馬野寮」


母光の女学校時代のアルバムをめくる村松良さん=浜松市栄町
 明治三十四年に元城町で開校してから大正十二年に作左山に校舎が移転するまで、浜松高女には寄宿舎があった。遠方から通う女学生のため、「曳馬野寮」と呼ばれる寄宿舎が誠心高校(現・開誠館高)の創始者長谷川鉄雄=故人=の屋敷の敷地内に建てられたのだった。

 曳馬野寮最後の寮生だった青池ゆか(90)=高女25回、鴨江=は「寮にいたのは二十人位。木造二階建ての建物の中に八―六畳の部屋が幾つかあって、一部屋に三人ぐらいがいたと思う。上級生とも和気あいあいとやっていましたよ」と一年ほどの寮生活を振り返る。

 寮の一日は寮母が鳴らす鐘の音で始まった。各部屋に掃除係や炊事当番などが割り当てられ、女学生は部屋長を中心に共同生活を送っていた。寮母が食事の準備をしていた。板の間にござを敷いた食堂に長机があり、女学生は並んでご飯を食べた。青池は「朝食はご飯におみそ汁、それにおかずが一品付いていた位と思う。今のようなぜいたくな食事ではなかった」と話す。

 素封家や名士の娘は初めての家を離れた生活に戸惑い、ずいぶん寂しい思いをしていたようだ。原野谷梅子(91)=高女25回、領家=は級友が「寮のふまどに文読めば またもゆかしき家路かな」と寮歌を口ずさんでいたことを覚えている。洗濯をしたことがなく、自分の髪も結えなかった女学生は家に何通も手紙を出し、長谷川に電話を借りることもしばしばあったという。

 寮の中では楽しみも多かった。長谷川の二女豊子(87)=東京都=は「幼いころ、寮生がやっていたお芝居を見に行った。お菓子などをもらって、お姉さんたちにもかわいがってもらった」と語る。毎週水曜日には「おたのしみ」と呼ばれるお菓子の配布もあったという。

 村松光=高女10回、故人=の息子で弁護士の良(61)=栄町=と妻浩子(59)は母光が寮で芝居に取り組んだころの写真を今も大切に保管している。浩子は「いつも寮の話をしてた。良い思い出だったんでしょう」と語る。

 生徒の増加とともに手狭になった馬冷を後にし、作左山に校舎を移転。女学校も戦禍に巻き込まれていく。第一章はこの回で終わります。第二章の作左山時代は八月一日付から始まります。

(文中敬称略)

(水、木、金曜日に掲載します)


掛中・掛西百年史 榛原高校百年 富士宮農高百年 御殿場高 躍進の百年

引佐高の百年 田方農高の百年

静岡新聞へ