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曳馬野寮最後の寮生だった青池ゆか(90)=高女25回、鴨江=は「寮にいたのは二十人位。木造二階建ての建物の中に八―六畳の部屋が幾つかあって、一部屋に三人ぐらいがいたと思う。上級生とも和気あいあいとやっていましたよ」と一年ほどの寮生活を振り返る。 寮の一日は寮母が鳴らす鐘の音で始まった。各部屋に掃除係や炊事当番などが割り当てられ、女学生は部屋長を中心に共同生活を送っていた。寮母が食事の準備をしていた。板の間にござを敷いた食堂に長机があり、女学生は並んでご飯を食べた。青池は「朝食はご飯におみそ汁、それにおかずが一品付いていた位と思う。今のようなぜいたくな食事ではなかった」と話す。 素封家や名士の娘は初めての家を離れた生活に戸惑い、ずいぶん寂しい思いをしていたようだ。原野谷梅子(91)=高女25回、領家=は級友が「寮のふまどに文読めば またもゆかしき家路かな」と寮歌を口ずさんでいたことを覚えている。洗濯をしたことがなく、自分の髪も結えなかった女学生は家に何通も手紙を出し、長谷川に電話を借りることもしばしばあったという。 寮の中では楽しみも多かった。長谷川の二女豊子(87)=東京都=は「幼いころ、寮生がやっていたお芝居を見に行った。お菓子などをもらって、お姉さんたちにもかわいがってもらった」と語る。毎週水曜日には「おたのしみ」と呼ばれるお菓子の配布もあったという。 村松光=高女10回、故人=の息子で弁護士の良(61)=栄町=と妻浩子(59)は母光が寮で芝居に取り組んだころの写真を今も大切に保管している。浩子は「いつも寮の話をしてた。良い思い出だったんでしょう」と語る。
生徒の増加とともに手狭になった馬冷を後にし、作左山に校舎を移転。女学校も戦禍に巻き込まれていく。第一章はこの回で終わります。第二章の作左山時代は八月一日付から始まります。
(文中敬称略)
(水、木、金曜日に掲載します)
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