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作左山校舎のあった場所は現在、浜松市立中部中学校となっている。作左山は起伏に富んだ丘陵地。石段で結んだ上下二段の運動場の配置は当時と同じ。石段わきの藤棚と大きなイチョウが今でも、高女時代と変わらぬ場所にある。 中部中の現校長金原秀葉(57)は浜松市立高を昭和三十七年に卒業した14回生。戦後卒業の金原は、作左山時代を知らない。「百周年とあってか最近、学校を見せてほしいという卒業生が訪ねてきます。なにか母校との縁みたいなものを感じます」 明治三十四年、定員百六十人でスタートした浜松高女は、馬冷校舎に移転して明治四十年には四百人、大正三年には補習科(五十人)も加えた。女子教育熱の高まりとともに、入学志願者が増えた。倍率も大正二年の一・三二倍から、同七年が一・六八倍、大正十年には二・三八倍と狭き門となった。定員枠も拡大し、補習科を除いて大正七年に六百人、大正十二年には八百人にまで生徒数が膨れ上がった。 馬冷校舎は、満足な広さの運動場がなく、スポーツもままならなかった。馬冷と作左山の両校舎で学んだ村松すゑ(92)=高女24回、積志町=は「古い学校で運動をしたという記憶はあまりない」という。 大正十二年に移転した新校舎は敷地三千四百五十五坪、建物八百六十四坪、運動場二千坪。旧校舎のざっと三倍近くの広さがあった。 同年に入学した渥美とし(90)=高女25回、雄踏町=は「立派な校舎でした。とにかく、市立に入れたことがうれしかった。海老茶袴の一本線を誇らしく思ったことを思い出す」と語った。 「活動写真館へは行ってはいけない」「自転車に乗ってはいけない」など厳しい規則があったが、女学生たちは雑木林の中で見つけた木イチゴを摘んだり、切り株に腰掛けて友達と話し込んだり、伸び伸びとした学校生活を送った。学校の近くにあった文房具屋で、弁当を持っていかなかった時は、パンを買ったことなど、当時の卒業生の思い出には楽しさが積み重なっている。
(文中敬称略)
(水、木、金曜日に掲載します)
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