第2章 「戦争へ」 (2)

中興の祖・黒田伝次郎


大正13年ごろの職員。前列、右から5番目が黒田伝次郎校長
 四十歳の黒田伝次郎が第五代校長として赴任したのは作左山校舎移転の前年。校舎を失う昭和二十年までの二十三年間、校長を務めた。「作左山」の歴史はそのまま、黒田の足跡と重なる。

 高女21回生から42回生まで黒田が送り出した卒業生は四千六百五人。浜松高女の全卒業生の約七割を占める。

 黒田は小笠町下平川出身。小笠町誌(昭和五十三年編纂)によると、明治十五年五月、宮城伝蔵の二男として生まれ、地元の私塾双松学舎の一期生として学んだ。静岡師範(静岡大教育学部)から広島高師(広島大教育学部)に進んだ秀才だった。その後、黒田ますと結婚、黒田姓となった。

 黒田は国語教育に力を入れた。毎日、生徒たちに書き取らさせていた「一日一訓」などは現在でも語りぐさとなっている。

 生徒手帳を最初に作ったのも黒田。生徒と教師が話し合った生活上の注意を本にまとめ、生徒に配布した。生徒が守らないと「生徒手帳にはこう書いてある」などと叱った、という。

 スポーツ振興にも力を注ぎ、テニス部やバレー部が全国的に名をとどろかせた。一方で、生徒の健康づくりのために遠足を奨励。「道具を教室に置き、弁当のみを持って校庭に集合」という号令が突然、かかることも度々だった。

 教師になった卒業生を母校の教師として受け入れることも熱心だった。

 金原ちゑ子(85)=31回、野口町=は昭和十八年から二十五年まで家庭科の教師として勤務した。「十七年ごろ、当時勤務していた沼津高女(現沼津西高)に黒田先生が何度も訪ねて来て下さいまして、うちに来ないかと誘って下さいました」。

 ワンマンぶりをうかがわせるエピソードも多い半面、温かい人柄に親しみを抱く人も多かった。

 浜松市大工町の写真館を営んでいた後藤唯市=故人=は高女の卒業アルバムの仕事を通じて親交があった。唯市の長男睦(92)=東京=の仲人も務めた。睦は「温厚で立派な校長先生だった。父親は『校長も登るので』と言って生徒たちの富士登山に一緒に登っていました」と語る。

 没年は「いちりつ」創立五十周年を翌年に控えた昭和二十五年十一月。ほどなくして黒田をしのぶ教職員たちによって「黒田会」が発足した。

(文中敬称略)

(水、木、金曜日に掲載します)


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