第2章 「戦争へ」 (3)

教え詰まる「一日一訓」


黄ばんだページを懐かしそうにめくる河村さん=浜北市新原
 黒田伝次郎校長が昭和七年から始め、終戦後まで一日も欠かすことなく続けた「一日一訓」は現在でも卒業生の記憶に強く刻まれている。

 河村ひさゑ(82)=高女33回、浜北市=は黒田校長の教えが何百も詰まった「一日一訓帳」を今も大切に保管している。河村は「黒田校長は漢字や文法、一字一句まで厳しい先生だった。でもそのおかげで漢字には強くなった」と、いとおしそうな目で黄ばんだページをめくった。

 昭和六年、創立三十周年を迎えた作左山校舎の一角に「記念館」が落成。翌年から全校生徒を毎朝集め、論語、漢詩、和歌、ことわざなどさまざまな言葉を教えた。時には唱歌などが取り上げられ、音楽の教諭がタクトを振りながら唱和することもあった。

 毎朝、担当の教諭が黒板に一日一訓を黒板に大書きし、黒田校長が言葉の由来や意味などを教え、生徒らは唱和して言葉を覚えた。クラスの係りは教室の黒板にも一日一訓を書き付けた。生徒は家に帰って帳面に書きつづり、担任に提出。誤字などには厳しく赤ペンが入った。

 うつ伏して にほう春野の 花すみれ 人の心に うつしてしがな―。

 黒田校長は毎月五日の朝礼でこの歌を取り上げ、「女学生はいつもスミレのように謙虚でいないといけない」と教えていた。河村ら高女三十三回の同窓会は名前を「すみれ会」と付けた。半世紀が過ぎても黒田校長の教えはしっかりと“いちりつ生”に息づいている。

 石岡弘子(83)=高女33回、池町=は昭和十五年に市の公会堂で開いたクラス会が忘れられない。同窓生が色鮮やかな着物で集まっていたのを新聞記者に見つかり、そのことが贅沢だと新聞に出たのだった。

 紫の ひともとゆえに 武蔵野の 花はみなから 哀れとぞみる―。

 そのとき石岡は一日一訓で習った歌を思い出し、「市立生のイメージを壊してしまった」と黒田校長に謝りに行ったという。

 「黒田校長は『一人でも良いことをすればそれは学校全体のこととなるし、その逆もしかり』ということをおっしゃっていました」と忘れられない一日一訓の思い出を語った。

(文中敬称略)

(水、木、金曜日に掲載します)


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