第2章 「戦争へ」 (5)

男子並みの「5年制」に


今も残る5年制卒業を証明する卒業証書
 昭和二十三年、学制改革で六・三制が敷かれ、教育課程が確立されるまでの大正から昭和初期に掛け、県内の多くの学校が修業年限や教育内容を変化させた。

 浜松高女も時代の流れと生徒の勉学への意欲に併せるように修学年限を変えた。変遷した制度は一度入学すると卒業まで厳密に施行された制度ではなく、生徒の能力や希望などに合わせて運用された部分もあった。

 平野淑子(83)=高女33回、元浜町=、越智富子(82)=同、愛媛県=は五年制に入学したが、四年生の時に静岡師範学校、愛媛師範学校をそれぞれ受験し、卒業した。

 越智は教諭だった父親から四年生で師範学校が受験できることを聞き、放課後に個人授業を受けるなどして受験したことを覚えている。一足早い受験のためには人一倍勉強しなければいけなかった。越智は「当時、五年制の女学校は珍しかった。受験では理科系の科目をほかの生徒より余分に受けた」と振り返り、「一年でも早く師範に入って、親に掛かる月謝の負担を少なくしたかった」と話す。

 平野は「五年制に最後まで通わなかったから本当は準卒業生扱い。でも卒業名簿に名前も入れてもらえ、同窓会に呼んでもらえるのがうれしい」と語る。

 男子の中等教育は多くが五年制だった時代。才女が集まった高女は大正三年に補習科を設け、十五年後には補習科を廃止。修業年限を五年制と改め、各学年定員が二百人と発展していく。

 昭和六年、創立三十周年記念式典では黒田伝次郎校長が「健全ナル社会ノ発達ハ女子ノカニ俟ツモノ甚ダ多ク、一家ノ和平ハ家庭ノ主婦タリ母タルモノゝ心情行動ノ如何ニヨッテ左右」される、と女子教育の重要性を話している。女子の中等教育は四年制が一般的だったが、高女生は男子と同じ五年制に通い、国家の将来を担う子どもたちを育てた。元教諭で現在、浜松市史執筆委員の村井一夫=和地山=は「当時、女子教育に対する期待は大きかった。時代を反映して修業年限が変化したのだろう」と話す。  昭和二十三年、学制改革で浜松高女は浜松市立高等女学校に名前を変更。中学校を併設すると同時に、高女三年を新制中学三年に、高女四、五年をそれぞれ新制高等学校の一、二年生に変え、現在に至っている。

(文中敬称略)

(水、木、金曜日に掲載します)


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