第2章 「戦争へ」 (7)

制服改定、セーラ−服に


4月に行った研修施設「誠玲館」の落成式典で、来賓をお茶でもてなす制服姿(冬服)の在校生たち=浜松市立高
 昭和八年、浜松高女の制服が紺の鬼サージ服からセーラー服に改定された。襟には校訓の「誠・愛・節」を表す三本の白線が入り、イカネクタイと呼ばれる白い短いネクタイを締め、二十四折りのひだスカートという”いちりつ生”の現在のスタイルが誕生した。

 制服改定にあたっては有名なエピソードがある。黒田伝次郎校長は制服について文句を言う生徒があると「制服が気に入らない生徒はどんどん気に入った制服の学校に転校しなさい」と朝礼で宣言したほどだった。改定が具体化していったのはある”事件”がきっかけだった。

 昭和六年十月。念願の明治神宮競技大会に出場した市立高女のバレーボール部員が、東京でバスの車掌と間違えられた。二年生だった富田靖子(83)=高女32回、大瀬町=は当時のことをはっきり覚えている。毎日の練習で全員が日焼けしていた。「宿の女中さんにこんな真っ黒な女学生は初めて見たと言われたり、町を歩けばバスの車掌さんの遠足だとか言われたりして」。都会の大人たちの遠慮のない言葉が少女たちを傷つけた。

 さすがの黒田校長もこの事件を契機に制服の見直し作業に乗り出したという。

 セーラー服に変わっても、身だしなみのきまりは厳しかった。頭髪は入学時の一学期間は、前髪をおろしてはいけない。髪が伸びる二学期は頭の両側にまとめてしばる。三学期からは三つ編みにするが、長さは両方の髪があごの下の握り拳一つ分の余裕があるまでと決められていた。

 「身だしなみは学校より、むしろ先輩たちがやかましくて怖かった」と沢木恭子(69)=3回、雄踏町=は語る。沢木は母校の家庭科教師として三十五年間務めた。

 二十年ほど前に職員室で、制服にまつわる話を聞いた。父親の転勤で大阪に転校することになったある生徒が、セーラー服で転校を希望する学校を訪ねた。事務室の職員から「県立や府立からの転校ならばともかく、市立からの転校は難しい」と言われた。この時、たまたま通り掛かったこの学校の教師が浜松にいたことがあり、才女ぞろいの市立高の制服を覚えていた。この教師の口添えで、編入試験を受け無事入学することができたという。

 「伝統の制服が生徒を救ったんでしょうね」。沢木はこの話が好きという。

(文中敬称略)

(水、木、金曜日に掲載します)


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