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馬冷校舎から広い作左山校舎に移り、生徒の間でさまざまなスポーツが盛んに行われるようになった。作左山校舎では休み時間になるとテニスや卓球などが人気を集めた。中でもテニスの人気は一番だった。 そのころの様子について仲山きみ(90)=高女26回、東伊場=は「当時は硬式ではなく、軟式テニス。昼休みもテニスで遊ぶ人が多かった。ラケットも取り合いだった」と語った。 黒田伝次郎校長も、スポーツの振興に力を入れ、運動部の育成に力を注いだ。テニス部、バレー部、球戯部、ピンポン部が誕生した。最初に、華々しい活躍を見せたのが庭球部だった。 浜松市立高が百周年を記念してまとめた各部の記録によると、大正十三年十月に第一回遠州女子中等学校庭球大会が浜松高女で開かれた。参加校はほかに西遠、見付高女。浜松高女の大井・藤田組が優勝した。 昭和二年には久野・中條組が第八回日本女学生庭球選手権大会に出場したのをはじめ、戦争が激しくなる昭和十七年まで西部地区や県大会、全国大会などで大活躍した。庭球部の活躍は生徒たちの関心も集め、対外試合の時、磐田や静岡へ応援に出掛ける生徒も多かった。 テニスコートはコの字型に配置された二階建て校舎の中庭部分にあった。校友会誌には「大正十二年十月十九日にテニスコート竣成」とある。このテニスコートのことであろうか。庭球部の顧問の秋鹿朝成=故人=と大庭賢一=故人=がコートに現れると一、二階の窓から生徒たちが一斉に頭を突きだした、という。部員を相手にする前衛の秋鹿、後衛の大庭のプレーに歓声が上がった。特に、歴史と国語を教えた秋鹿は独身の青年教師。テニス部員だった鈴木ふじ(89)=高女26回、神立町=は「秋鹿先生は生徒たちの人気を集め、あこがれの的でした」と当時を懐かしんだ。 テニスの思い出を語っていた仲山が突然、歌を口ずさんだ。「作左の山にこだましてわが打つ球の声高し三方原の夕映えに…」。テニス部の応援に出掛けた時によく歌った歌という。 (文中敬称略)
(水、木、金曜日に掲載します)
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