第2章 「戦争へ」 (9)

全日本体育大会で優勝


神宮大会にも出場したバレーボール部員だった富田靖子さん。全国大会や東海大会などの出場記念バッチは18個にのぼった。=浜松市大瀬町
 浜松高女でバレーボール(九人制)が行われるようになったのは大正十二年ごろと言われる。しかし、部活動は顧問が頻繁に代わり、指導教諭の不在を理由に大会出場を断念したこともあった。いわゆる弱小チームだった。

 大正十四年、福井県出身の青年教師が着任しバレー部が大きく飛躍を遂げる。国語教師の淵上正=故人=。淵上は新居高に転出するまでの二十五年間、在籍した。

 黒田伝次郎校長に命じられて顧問を引き受けた淵上はバレーの全くの素人。名古屋や静岡の有名校の門をたたき、指導方法を学んだ。強化策として極東オリンピック大会に出場した京都大学医学部の学生柴田祐二と東京大学の学生だった本田武夫をコーチに招き、最新の戦術や技術をマスターした。浜松師範などの男子チームを練習相手にした。「ボールに血がにじむほどの猛練習を重ねた」と富田靖子(83)=高女32回=は証言する。

 浜松高女はみるみる実力を付けた。昭和四年、東海女子中学校排篭球大会で準優勝。同六年には県大会優勝、東海大会三位、隔年で開催していた全国大会の神宮大会に初出場し、二回戦に進出した。神宮大会は合わせて四回出場し、準決勝に二回駒を進めた。同七年には全日本女学校体育大会(神宮大会の間の年に開催)で、優勝を果たした。

 白木増子(85)=高女30回、松戸市=は昭和七年、全日本で優勝した当時の主将。前衛のセンターでエース。「全国優勝の帰り、汽車が静岡駅に停まった時に体育関係の先生たちがホームに大勢、お祝いに集まってました。浜松に戻ると自宅にまで新聞記者が訪ねてきました」。

 柴田コーチは当時の女子チームがやっていなかったオーバーハンドサーブと早タッチ(現在のクイック攻撃)を伝授した。「食後の休憩時間も惜しんだ」柴田とのマンツーマン練習で白木は早タッチのこつをのみ込んだ。

 サーブが苦手だった白木は、だれもいないコートでサーブの早朝練習を行った。ふと気付くとコートの傍らに校長の黒田が立っていた。それから毎朝、コートには黙々とサーブを打つ白木と無言で見つめる黒田の姿があった。

 淵上は校長の黒田が退職した後、昭和二十年からは教頭を務め戦災で焼けた校舎の再建のために市や議会など各方面を奔走した。

(文中敬称略)

(水、木、金曜日に掲載します)


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