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文集は安川と、同級生の飛田みさ子=和合町=、野島桂子=鹿谷町=、島田基子=山下町=、大林晴江=富塚町=の五人が協力して約百部を作成。同窓生に配布した。 安川は「私たちには卒業写真が無かった。卒業式も挺身隊で入った企業から一日だけ休みをもらって集まっただけだったから…」と寂しそうに話し、戦争に翻弄された青春時代を思い出した。 昭和十六年、太平洋戦争が始まったのを境に、戦争は学徒の身にも降りかかるようになり、浜松高女もその波に飲み込まれる。学業の内容は日に日に変わり、防空演習や消火訓練、慰問袋づくり、サツマイモづくり、農家の手伝いなどの勤労奉仕が正課へ取り入れられた。 “寅年の千人針は効果がある”という話から、浜松高女四十一回生(五年制)には千人針の依頼が多く舞い込み、慣れない裁縫に明け暮れ、五年生の時はほとんど座学の勉強はできなかった。また、授業では英語は禁止され、「ドレミ」は「いろは」に変わった。卒業式では敵国から入ってきた歌だということで「蛍の光」も歌われなかったという。 浜松高女は昭和十七年に報国隊を組織し、二年後には第一号の挺身隊を企業に送りだした。約百人の女学生は卒業間際の昭和十九年一月、現在のヤマハ、河合、JR、スズキなどに動員された。 セーラーにもんぺ姿。トレード・マークだった白いネクタイも“ぜいたくだ”と外さなくてはいけなかった。進学を許されたのは医専や薬専、師範学校に進む十人ほどの生徒だけだった。進学組だった女学生は「もっと直接お国のために仕事をした方が良いのでは」と肩身の狭い思いで学校での勉強に取り組んだ。 文集では「思い出」と題して、多くの同級生が戦争に触れた。だれもが時代に翻弄されたころを思い出し、「若さゆえに苦とも思わなかった」「今は宝物だと受け止められるようになった」と青春時代を振り返った。 (文中敬称略)
(水、木、金曜日に掲載します)
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