第2章 「戦争へ」 (12)

豊川海軍工廠で卒業式


卒業写真を見て、工廠で過ごした日を思い出す小野田さん
 「私たちは豊川で濃密な一年を過ごした。非常に厳しい時代だったが、人間関係がよかった」。昭和十九年、学徒動員令が施行され、五年生で豊川海軍工廠(しょう)に動員された小野田恵美(74)=高女42回5年制、城北=は振り返る。

 同年初夏、浜松高女五年生の二学級は浜松を離れた。当時の資料によると、豊川海軍工廠は十二万八千坪の工場や事務所が立ち並び、六千人の学徒を含む五万三千人が働いていた。小野田は「初めて見た時、その大きさにびっくりした」と話す。

 一組は砲戦用指揮兵器を製造する指揮兵器部に配属され、油にまみれて旋盤に取り組んだ。戦局が厳しくなり、作業は深夜まで続いた。柴田キヌ(74)=同、村櫛町=は「辛いと思わなかったが、今では考えられない生活だった」と語る。一方の二組はクラスを分散して光学部でコンパスや航海用計器を製作した。羅針盤のガラスをはめ込む作業をした小野田は物資が少なかった時代を思い出し「ガラスを割ってしまった時は身震いする思いだった」と話す。

 学徒動員で工廠へ来た学生らの宿舎は周辺の寮が当てられた。浜松高女は工場から徒歩で約十分離れた木造二階建ての寮で過ごした。二クラス約百人の女学生は芋畑に囲まれた寮を「曳馬寮」と名付けた。女学生は隊列を組み、もんぺに鉢巻き姿で毎日、工場へ通った。

 小野田ら高女四十二回生の卒業式は工廠の中心にあった本部庁舎で行った。本校から駆け付けた黒田伝次郎校長から免状を受け取った。工廠関係者なども出席したが、送り出す生徒もいない寂しい式だった。卒業写真は寮の前でクラスごとに集まって撮った一枚の写真だった。

 卒業後も工廠に残った生徒には忘れられない思い出がある。

 昭和二十年年八月、工廠は大規模な空襲に遭い、約二千五百人の犠牲者を出す。しかし、引率責任教師の渕上正=故人=らが機転を利かし、防空ごうに逃げ込んだ生徒を誘導。互いに手を握り合って降り注ぐ焼い弾の中を逃げ、高女生の中から奇跡的に犠牲者を出さなかったという。

 柴田は玉音放送で終戦を聞いた。将校らと泣きはらし、集団自決しようとして一室にこもったことを思い出す。「豊川で過ごした時は特別。思い出もいっぱいある」と語った。

(文中敬称略)

(水、木、金曜日に掲載します)


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