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このころ、浜松高女の生徒は学徒動員された三年生以上が軍需工場で働き、一、二年生だけが登校していた。警戒警報が発令されると、学校にいた生徒は直ちに下校した。
美代は、両親と兄の四人で暮らしていた。浜松工専の学生だった兄は勤労動員された新居町の軍需工場から爆撃で半壊した自宅に帰宅した。父親と一緒に母親と妹を探し回り、鴨江寺にずらりと並べられていた遺体の中から二人を見つけ出した。 兄は遺品の六冊のノートを今でも大切に保管している。妹が入学以来つけていた日記帳だった。四月に入ると日記の中に警戒警報、空襲警報の文字が多くなる。最後の日付は四月二十三日。 「月曜日、曇り。(略)四限、裁縫室でほどきものをする途中警戒に入る。五限、衛生室で目の検査。(略)爪切り日を日曜と定めた」とある。兄はその後、日記の末尾に「四月三十日午前十時半」と妹の死亡日時を書き加えた。 その日の朝、工場へ出掛ける時に、珍しく母と妹が見送りに玄関先まで出てきた、という。庭にあった十本以上のミカンの木が白い花をいっぱい咲かせていた。「今年はミカンがたくさんなりそうだね」。親子三人が交わした最後の笑顔だった。 この日、小杉美代を含め九百七十人の市民が亡くなった。 (文中敬称略)
(水、木、金曜日に掲載します)
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