第2章 「戦争へ」 (13)

日記が語る空襲の悲劇


小杉美代が入学以来付けていた日記。4月23日が最後の日付だった。
 多くの犠牲者を出した太平洋戦争。浜松市内は昭和十九年十二月十三日の初空襲以来、合わせて二十七回の空襲と艦砲射撃によって甚大な被害を受けた。二千九百四十七人(浜松市調べ)の市民が死亡し、この中には、浜松高女の生徒も何人か含まれていた。当時は、疎開による転出入も多く、高女生の戦没者数のはっきりしたデータは残っていない。

 このころ、浜松高女の生徒は学徒動員された三年生以上が軍需工場で働き、一、二年生だけが登校していた。警戒警報が発令されると、学校にいた生徒は直ちに下校した。


入学当時の小杉美代
 昭和十九年に入学した小杉美代は、二年生になったばかりの二十年四月三十日、いつもと同じように浜松市鴨江の自宅から登校した。午前八時二十分ごろ、警戒警報が発令されたため、帰宅して、近所の人たち二十数人と一緒に自宅近くの防空壕に身を潜めた。横穴の壕の出入り口近くに爆弾が落ち、壕が崩れ落ち、全員が生き埋めとなった。女性や子どもたちばかりで、救い出されたのはたった一人だった。真っ暗な土の中で神や仏に救いを求める声が一つ消え、二つ消えていったと生存者は話した。

 美代は、両親と兄の四人で暮らしていた。浜松工専の学生だった兄は勤労動員された新居町の軍需工場から爆撃で半壊した自宅に帰宅した。父親と一緒に母親と妹を探し回り、鴨江寺にずらりと並べられていた遺体の中から二人を見つけ出した。

 兄は遺品の六冊のノートを今でも大切に保管している。妹が入学以来つけていた日記帳だった。四月に入ると日記の中に警戒警報、空襲警報の文字が多くなる。最後の日付は四月二十三日。

 「月曜日、曇り。(略)四限、裁縫室でほどきものをする途中警戒に入る。五限、衛生室で目の検査。(略)爪切り日を日曜と定めた」とある。兄はその後、日記の末尾に「四月三十日午前十時半」と妹の死亡日時を書き加えた。

 その日の朝、工場へ出掛ける時に、珍しく母と妹が見送りに玄関先まで出てきた、という。庭にあった十本以上のミカンの木が白い花をいっぱい咲かせていた。「今年はミカンがたくさんなりそうだね」。親子三人が交わした最後の笑顔だった。

 この日、小杉美代を含め九百七十人の市民が亡くなった。

(文中敬称略)

(水、木、金曜日に掲載します)


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