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浜松高等女学校のページは、「昭和二十年六月十八日 焼夷弾攻撃を受け記念館(雨天体操場)を除きたる全校舎を全焼す」とある。被戦災生徒数五百二十二人、被戦災職員数二十一人。 この空襲は、浜松市を壊滅的に破壊し尽くし、千百五十七人の市民が死亡した。 罹災に対する浜松高女の善後処置として同資料は「(1)校舎全焼、且つ自家全焼者多きため全校一週間休業とす。しかし、罹災せざる生徒は出校して焼け跡整理をなす(2)その後一、二年生徒(上級学年は出動中)は授業を休止して焼け跡を整理せしめ農場となす(3)九月十一日より城北国民学校九教室及び追分国民学校四教室を借り受け授業を再開す」と記載してある。 八月十五日の終戦当時は生徒数千四十九人、学級数二十四学級、職員数四十三人(四学級は出動中の専攻科)となっている。 十八日の空襲で夜空を焦がしながら焼けていく浜松市を当時、四年生だった池谷小夜子(70)=高女43回、上新屋町=は弁天島の自宅から見ていた。当時は学校にはほとんど行かず、自宅から直接、勤労動員された軍需工場に通っていた。二、三日たったころ、学校の様子を見に行った。鉄骨造りの記念館を除き、校舎は完全に焼け落ちていた。 各学級ごとに広辞林が置かれてあった。「高価な本なので、みんなで大切に使っていました」。厚い本がまるごと灰になっていたのがいまだに鮮明な記憶として残っている。灰の濃淡で印刷された文字も読めた。 職員室の隣の図書館があった場所でも多くの本が灰になり、本棚に積まれたままの格好で灰になっていた。記念館の横の講堂があった場所には焼けたグランドピアノがそのままの形で残った。「広辞林は欲しくても買うことのできなかった辞書。むなしさと同時にもったいないという思いがこみあげてきた」 一年生だった妹と最近、思い出を語り合った。一緒に焼け跡の学校を見に行ったわけではないが、妹も同じように厚い本がそのままの形で灰になっていたことを鮮烈に覚えていた。 (文中敬称略)
(水、木、金曜日に掲載します)
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