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当時、最上級の四年生。勤労動員されていた工場が次々と爆撃を受け、自宅も焼かれ、浜松を離れて山梨の女学校に転校した。終戦になって「どうしても“いちりつ”を卒業したい」という思いが募った。「九月から新学期が始まる」という知らせを受け、じっとしていられなくなった。 浜松高女の担任だった教師に手紙を出し、転入手続きの助力を頼み、単身、浜松に向かった。しばらくの間、母親の知人の家に身を寄せて通学した。 通った学校は空襲を受けた作左山校舎ではなく、城北国民学校(現城北小)。このほか、追分国民学校(現追分小)、焼け残った記念館でも授業が行われた。広沢に移転する二十二年一月まで分散授業の時代が続く。 城北の校舎で松本は、同級生の大井澄子(72)=高女43回、松城町=と再会。新学期が始まることを手紙で知らせてくれた成瀬喜久子(71)=高女44回、松城町=とも出会う。 疎開先から戻ってくる生徒たちが増え、次第にいちりつの活気がよみがえってきた。運動会、学芸会も開くことが出来た。 ただ、肝心の教科書がなかった。教師がガリ版刷りで作った粗末なわら半紙が教科書だった。生徒たちは穴を空け、古いひもなどを使って自分でとじて使った。 半年後の二十一年三月に百八十二人が卒業した。卒業式は記念館で行い、前年に就任したばかりの第六代坂本幸次郎校長から卒業証書を受け取った。松本は、今も卒業証書を持っている。物資のない時代を反映して、弱い風でも舞ってしまうような薄い紙の証書だった。 四年生で引き続き勉強を続けたい生徒は学校に残ることができた。もう一年、学校で勉強を続けた生徒七十四人は四十四回生として二十二年三月に卒業した。 ただ、勉強する環境に恵まれなかったため、途中退学する生徒が続出した。学校側は退学者を食い止めるため、一時、卒業証書を集め、預かったという。 (文中敬称略)
(水、木、金曜日に掲載します)
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