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「広沢時代」は大石卓第十三代校長が創立八〇周年記念誌で振り返るように「現在の第一棟校舎から七尺正門よりに建てられた」校舎から始まる。河合八重子(70)=高2回、山下町=は格納庫を使った当時の校舎について「現在の三社神社の近くだったと思う」と語る。校舎の東側には軽便鉄道が走り、女学生が登下校に利用した。 昭和二十二年九月、軍から払い下げを受けた兵舎の校舎改造工事が終了し、約五百七十坪の校舎へ移転する。「広沢時代」は昭和二十五年、被服、食物科の特別教室と理科室を含む一棟を新築するなど、旧浜松工専の校舎を昭和三十六年八月三十一日まで使いながら、現在の校舎になるまで新築や改築を繰り返した。 格納庫をベニヤ板で仕切った仮校舎は当時の記録によると、職員室、事務室、使丁室、宿直室、それに第四、五学年の六教室だけだった。廊下が真ん中にあり、授業中にほかの教室の生徒と目が合うこともしばしば。高橋すみ子(71)=高女44回、野口町=は「隣の先生の声が聞こえて、あまり勉強できなかった」と語る。 移転当初は葵町の航空隊から、八―十人の女学生が一組になって軍隊の机などを次々と運んだ。金子八重(72)=高女44回、城北=は現在の姫街道を隊列を組んで歩いたことを覚えている。「軍隊の机は重かった。でもだれも文句を言わず黙々と運んだ」。 移転に伴い、旧浜松工専の初代関口校長が手を掛け育てていた「ナニワイバラ」が正門西側に咲き乱れるようになり、市立高のシンボルとなる。移転前から花を咲かせ、既に七十年以上の歴史を持つ「ナニワイバラ」を「カラタチの花」と思って目にしていた卒業生も多い。 市立の象徴とも言える「ナニワイバラ」は平成五年の校舎全面改築の時、大掛かりな移植作業を行った。当時、同窓会長だった河合は移植の時に挿し木をもらって、今もマンションのベランダで育てている。毎年白い大きな花を咲かせるのが楽しみだ。 (文中敬称略)
(水、木、金曜日に掲載します)
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