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高女三年を新制中学三年に、高女四、五年がそれぞれ高校一、二年生になった。この年の生徒数は中学三年が三百二十六人(六学級)、高校一年が三百三人(七学級)、高校二年が二百七十一人(六学級)、高校三年が四十七人(一学級)だった。 制度の転換期で新たに生徒の募集はしなかった。本多きめ子(68)=高4回・被服科、大瀬町=は「下級生がずっといなかった。新制になって高校二年生になった時、初めて下級生を迎えた」となかなか後輩ができなかった寂しさを思い出す。 また、昭和二十二年度の高女卒業生の中でさらに学校に残ることを希望した生徒が高校三年生となった。翌年の三月に卒業した新制高校第一号の卒業生は四十四人だった。 第一号卒業生の藤野みや子(71)=鴨江町=らは作左山時代に入学し、学徒動員、分散授業を経て、格納庫での授業を受けた激動の世代。藤野は「混乱した時代でほとんど学校に通えなかった。ようやく勉強ができる環境が整って、みんなもうちょっと学校にいたいという気持ちがあったのでは」と話す。 藤野らは学制改革の狭間で浜松高女、市立高に合計で六年間通った。しかし、新制となってからも学校に通えたのは一年間。後輩のために学校を整備する日が続いたが、卒業証書、卒業写真は高女と市立高のものが二枚ずつあるのが自慢だ。 新制高校に生まれ変わると同時に、学則が制定された。浜松高女と同様に服装や髪形については厳しい学則が定められた。例えば、髪形では「前髪をおろしてはいけない」「長髪は左右に分け、三つ編みにすること」など細かく定められていた。校庭などに集められ、教諭が見回ることもあったという。大庭藤代(68)=高4回、中野町=は「癖毛だったからクリップで髪を止めていたら注意された」と言い、髪を伸ばして三つ編みにしていた女学生時代を振り返る。片田聖子(68)=高3回、蜆塚=は生徒手帳が配布され、学校の一員としての気持ちを強くした。片田は「厳しいと言われる学則も当たり前と言う気持ちだった」と語った。 (文中敬称略)
(水、木、金曜日に掲載します)
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