第3章 「復興・新生」 (5)

浜名湾水泳で全種目V


浜名湾女子高校水上選手権大会で全種目優勝の栄冠を勝ち取った選手ら
 昭和二十七年九月、浜松市立高水泳部は浜名湾女子高校水上選手権大会で全種目優勝の栄冠を勝ち取る。

 水泳部の黄金時代の礎は昭和二十年代から三十年代に築かれた。当時の女子水泳種目は平泳ぎ、背泳ぎ、自由形の三種目。市立にはそれぞれ杉浦一子=高5回、故人=と飯島里子(66)=同、東京都=、鈴木和子=高7回食物科、東京都=の三枚看板がいた。飯島は同級生の杉浦とともに一年から三年まで国体、インターハイに出場し、インターハイで総合五位になった時の背泳ぎの名選手。浜名湾の大会について特に記憶はない。

 しかし、水泳に明け暮れた学生時代は鮮明に覚えている。水泳部のコーチは式守正教諭=故人=。式守にひどく絞られ、「明日の練習には行かない」と思いながらも次の日には水着とタオルを持って登校した。「続けられたのは達成感があったからでは」と語る。

 羽田正子(65)=高6回、広沢=は杉浦と泳いだ思い出と同時に、厳しかった練習を思い出す。杉浦はインターハイに出場すると必ず決勝まで残った。「杉浦さんは本当に早かった」と杉浦の泳いでいた姿を思い出した。

 練習は体を慣らすために千メートル泳ぐことからスタートした。そして、プールから足が上がらなくなるぐらいまで泳ぎ込んだ。練習の最後は「ダッシュ」。二十五―五十メートルを全速力で泳いだ。タイムが落ちると式守は「もう一回」とげきを飛ばした。羽田は「厳しいけど人情味のある先生だったからみんながついて行っていた」と語る。

 田中幸子(68)=高4回、蜆塚=や山上ちさと=同、愛知県=、飯島らはシンクロに日本で初期に取り組んだ選手たち。卒業後、浜松城の下にあった市営プールでシンクロを始めた。まだシンクロの存在自体があまり知られておらず、「水中バレー」とも呼ばれていたころだ。田中は「当時二十二、二十三歳だった。今のような高度なシンクロではなかった」と語る。三人はアジア大会開会式のエキシビジョンに参加した。

 水泳部は「緑泳会」という同窓会組織をこのころに発足し、現在も年一回の総会を開いている。総会が終わると、母親になった選手らが子どもと一緒に母校のプールへ入っている。

(文中敬称略)

(水、木、金曜日に掲載します)


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