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被服科は学制改革のうねりの中で生まれた。初期の卒業生は普通科入学後に被服科に振り分けられた。田中孝子(70)=高女46回、浜北市=は少しでも裁縫が得意になって親の手伝いをしようと被服科に進んだ。「裁縫がうまくなかったから家に持って帰って母親にやってもらった」と話し、「結局負担を増やしてしまった」と笑顔で語る。 高五回生から最後の被服科卒業生がいる高八回生は、入学から卒業まで各学年とも同じクラスで机を並べた。思い出も「団結の強さ」が一番に上がる。いまでも自分や孫の服を作っている卒業生も多い。 五十川愛子(64)=高7回被服科、竜洋町=は普通科に進学したかったが、被服科に進んだ。卒業後は母が自宅で和裁を教えていた影響でその後を継いだ。被服科で学んだ染色や色彩を基礎に、母から和裁を徹底的に学んだ。五十川は「若いときは色々やりたいこともあったけど、今は和裁をやっていて良かったと思う」と語る。 今村婦美子(66)=高5回食物科、志都呂町=は父親に勧められて食物科に入学した。女性が手に職を持ち始めた時代。父親は「学校給食は人を必要とする」と先を読み、今村も必死で栄養学など食物科ならではの授業に打ち込んだ。今村は卒業後、学校給食に約四十年間勤めた。 引馬洋子(67)=高5回食物科、中島=は栄養士の資格を取って、職業婦人になりたくて食物科に入学した。栄養管理や献立の立て方などを学んだが、卒業間際に父が体を悪くして進学できず、夢はかなわなかった。「栄養士になれなかったのは本当に残念」だが、調理関係への夢を捨てきれず、卒業後に静岡市まで行って、調理師の資格を取った。 引馬は三年間の思い出と努力の詰まったノートを今も保管している。黄ばんだノートにはぎっしりと細かな文字が並ぶ。食物科で過ごした三年間はいつまでも忘れられない良い思い出だ。 (文中敬称略)
(水、木、金曜日に掲載します)
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