第3章 「復興・新生」 (7)

ソフト部 初の国体出場


東海大会で優勝し、昭和26年の国体出場を決めた選手ら
 ソフト部は昭和二十年初期に誕生し、創部わずか数年で国体出場を果たした。三十年代まで続くソフト部全盛期の始まりだった。

 ソフト部が最初に国体に出場したのは昭和二十六年の広島国体。当時は県大会で優勝して東海四県の大会に進み、そこで優勝して初めて国体に出場する権利が与えられた。国体では足が地に着かずに負けてしまったが、選手にはさまざまな思い出がよぎる。

 キャプテンだった山口信子(68)=高4回、東若林=は「県内では国体でも優勝できるような三島北高が有力チームだった」と語り、「『国体に出よう』が合言葉だった」と話す。

 当時、顧問は水泳部でも鬼コーチぶりを発揮した式守正教諭=故人=が兼任で務めていた。式守のノックは強烈で、しかもミスすれば校舎の外周を走らせる厳しいものだった。

 国体出場が決まると合宿練習もした。教師や父母、生徒が食事の準備をするなど学校全体が部の活動を支えた。国体前には式守らが寄付を募るなどし、選手のために布地を買い、そろいのコートを作った。厳しかった式守は試合の前日に「子どもたちに栄養をつけてやりたいから」と卵どんぶりを宿の主人に頼んだ。白井は「卵は病人しか食べられなかった時代。式守先生は厳しい半面、生徒をいろんな面で支えてくれた」と振り返る。

 昭和三十二年、金田正義教諭=故人=が率いるソフト部が六年ぶりに国体に出場し、活躍する。宿敵三島北高を予選で破った市立高は一回戦岡山代表の美作(みまさか)高と対戦し、7対0と快勝。キャプテンだった奈良葉子(62)=高10回、湖西市=は「バスで何台もの応援が来て心強かった」と語る。

 続く第二試合は東京都の神田学園と対戦。当日、朝練習でエースピッチャー鈴木利枝(62)=高10回、佐藤町=が体の不調で倒れたアクシデントにも負けず、4対3で辛勝した。波に乗るソフト部だったが、続く第三試合で大坂代表の羽衣学園に惜敗した。

 ファーストを守った藤原もと子(61)=高10回、小池町=は国体に出場したころを思い出し、「金田先生が父親のような役割を果たし、団結力が強い良いチームだった」と話す。奈良も「選手が一つの気持ちでやっていた」と懐かしそうに話した。

(文中敬称略)

(水、木、金曜日に掲載します)


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