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声楽家で名古屋音楽大学教授の大野恵子(62)=高10回、富塚町=は年間十本ほどのコンサートを行いながら、週三日間、大学で講義を行う忙しい毎日を過ごしている。 大野は母一人子一人の家庭で育った。「母は毎晩、服を洗濯しては次の日にその服を着る生活をして、ピアノを買ってくれ、声楽のけいこに通わせてくれた」。 中学のころには「将来は音楽の道に」と漠然と夢を抱き、中部中学から多くの友達と浜松市立高へ進学した。高校時代は細江町から学校へ通い、東京にも音楽を学びに行った。 昭和三十九年に母校の市立高で「壮行リサイタル」を開いた。市立高から進学した武蔵野音楽大を卒業後、「西洋の音楽をやるなら、それが生まれたヨーロッパに行かなければ意味がない」と、厳しい試験を突破。ドイツ政府の給費留学生として西ベルリン音楽大学に留学する直前のことだった。大野は「リサイタルのことは覚えていない」と話すが、プログラムのコピーだけは今も大切に残している。 大野は勤勉なヨーロッパの学生に負けず、昼は楽譜を読んだり、発声の反復練習、夜はオペラに通って勉強に励んだ。渡欧三年目には、コンサートの舞台に立ち、二本のオペラに出演を果たした。また、長期休暇には企業で通訳のアルバイトをして学費を稼ぎ、サンタ・チェチリア音楽学校も卒業。十年間をヨーロッパで過ごした。 声楽家として数々の舞台に立ち、目覚ましい活躍をしていた大野に転機が訪れたのは四十四歳の時。病気にかかり、薬の副作用で思うように声が出なくなってしまったのだ。「この時に声が出ない分、いかに心でカバーするかを学んだ」。元の声が出せる声帯を取り戻すまでに十年かかった。 「一つの舞台を作るためにはいろんな人たちが裏で支えてくれている」。感謝の心が大野の歌を人の心に伝えている。 若い学生と授業をする今の生活を楽しいと感じている。大人の常識など枠にとらわれない学生の考えに、若いころの純粋さ、素直さを思い出す。 大野は「日本人が日本語で書いた、日本の信条があふれた作品で世界で勝負したい」という夢を語った。 (文中敬称略)
(水、木、金曜日に掲載します)
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