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序章「五輪の4人(1)」

古橋広之進さん
(ヘルシンキ大会水泳)

マッカーサーに直談判
「スポーツを人生に生かすことが大事」と話す古橋さん=東京都渋谷区の岸記念体育会館
 正門から校舎へ続く東坂を登り切ると、四人のオリンピック出場者の顕彰碑が目に入る。平成十年七月の除幕の日、JOC会長古橋広之進(昭20卒)は「水の中からいろいろなものを学び取ってほしい」と在校生らを激励した。

 古橋が泳ぎ始めたのは、雄踏小四年の時。浜名湖を囲った町営プールができ、がむしゃらに泳ぐうち敵知らずに。六年の時出場した県大会の百、二百メートル自由形で全日本学童新を出し、「豆魚雷」と騒がれたのが、その後の水泳人生の出発点となった。

 昭和四十七年の全日本選手権四百メートル自由形で世界新をマークしてから、リレー種目を含め世界記録を三十三度塗り替えたが、圧巻は昭和二十四年に二十歳で挑んだ全米選手権。世界新を記録した二種目を含む自由形三種目で優勝、千五百メートルはそれまでの世界記録を39秒8も縮め、敗戦直後の日本を沸かせた。

 「フジヤマのトビウオ」の異名を取った記念すべき大会だったが、古橋が体当たりで参加資格を得たエピソードはあまり知られていない。

 戦争が終わり、日本水泳連盟は国際水泳連盟へ復帰。これを機にハワイ大の在留邦人から、水泳交流の招待状が古橋に届く。来訪準備を通じて全米選手権が開かれるのを知った古橋は、米国の水泳連盟へ直接電話を掛けた。

 「ぜひ参加したい」。「OK」の返事を得たが、国交はまだ断絶状態で、本国へのビザがない。知り合いの日本人中尉に掛け合い、マッカーサー元帥にアポイントを取り付けた。「占領軍の本部があった日比谷の第一生命ビルで、直談判です。よく許可された、とみんなが驚いた」。

 行動力抜群で終戦直後、日本人の使用を禁じた神宮プールを開放させたり、兵庫での国体には無賃乗車と野宿で乗り込んだ。ヘルシンキ五輪では体調不良の中、八位入賞も果たした。

 二中時代、学徒動員で左手中指の第一関節から先を失った。「もう泳げない、と思った。でも、人が十やるなら二十やればと」。努力の人になった。しかし、勝てば良し、でもない。「スポーツを通じて人と交わり、異なる文化や歴史、ものの考え方を学んで人生に生かさなくては。現役時代は一瞬なのですから」

(文中敬称略、題字は古橋広之進さん=昭和20年卒=)
(火―木曜日に掲載します)

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